心中未遂
と、思った瞬間があったが、それがいつだったのか、意識が戻ってすぐに思い出せなかった。今から思えば、それを悟ったのは、男の異様さに気が付いた時だった。
――この人を見ていると、何でもいうことに従わなければいけない気分にさせられる――
まるで主従関係のような感覚を持ったのだ。初対面でありながら、決してこちらを見ようとしない横顔を見ていると、本当に初対面なのか分からないという気持ちにさせられる。主従関係というよりも、従属関係。男が言う理沙に対しての言葉はすべてが命令で、それに逆らうことのできないイメージ。それは理沙が男の奴隷であるかのような錯覚に陥ったからだった。
理沙は、その時のことを思い出してると、まわりが心中だと言っているけれど、理沙はいくら男が命令したからと言って、死ぬところまで行くわけはないと思っていた。少なくとも理沙が死のうとしたのであれば、死を決意するための理由がどこかにあったのだろう。しかし、その思いは見当たらない。
そういえば、以前自殺について変な話を聞いたことがあった。
「自殺というのは、伝染するらしいぜ」
「えっ、伝染? それは誰かのまわりで一人が自殺すると、その人が知っている人が近い将来に自殺するというような感じかい?」
「そうだね。伝染というよりも、連鎖反応と言った方が正確かも知れない。列車の人身事故だって続いたりするじゃないか。人身事故なんて、そのほとんどが自殺だっていうぜ」
確かにその通りだ。
理沙も人身事故のほとんどは自殺だということを耳にしたことがある。そして、人身事故というのは、一度あったら、数日続いたりするものだ。ひどい時には、同じ日に何件も人身事故がある。これはただの偶然として片づけてもいいものなのだろうか?
理沙は、大学に通っている時、特に人身事故が多かったのを覚えている。すぐに電車は運休になるし、何時間も電車が遅れても、駅員はまるで他人事、お客さんの中には大声で怒鳴り散らす人もいるが気持ちは誰もが同じであろう。
「人身事故なんだから、しょうがないじゃないですか」
これが駅員のセリフである。
「ふざけるな!」
利用者が叫ぶ。まさに誰もが同じ心境なのか、駅員に鋭い視線を浴びせている人も少なくない。
「人身事故が多いなら多いで、お前たち、それに対しての対策くらいは立てているんだろうな」
「もちろん、本部の方でやっております」
と駅員は詰め寄られながらも、必死に挽回を試みるが、説得力はない。
「やってるなら、そんな他人事のような態度は取れないだろう。きちんと乗客に説明もしないで、お前たちには説明責任はないのか?」
これもその通り、電車が遅れても、信号停止で止まっても、五分経っても車内放送の一つもない。客は黙って座っているが、中には苛立っている人もいる。急いでいる人も一人や二人ではないだろう。
乗り換えもあれば、商談や待ち合わせで時間が限られている人もいるだろう。それなのに、途中の駅で数十分も待たされて、乗っている電車が一時間近く遅れていても、
「遅れております、後続の特急列車の通過を待っての発射となります」
という放送。
「ふざけるな」
客が我慢できずに最後部の車掌室に怒鳴り込んでいく。
客は、説明不足だと言って怒っているが、車掌は頭がパニックになっているのか、ただ謝るだけだ。これでは、
「危機管理がなっていない」
と言われても仕方がないだろう。
理沙は、救急車で運ばれ、ベッドの上で気が付いて、どうして自分がそこにいるのかを看護師に訊ねた時、
「あなた、心中なさったのを覚えていないんですか?」
「心中?」
自殺ならいざ知らず、心中という言葉に反応したのだ。相手が誰かも想像できなかった。まさかあの時の男だなんて、一体何があったというのだろうか?
記憶を失ったとも聞いたが、目が覚めてまったく何が何か分からない状態、
――いずれ意識が戻った時に、ハッキリするわ――
と思っていたが、そんなことはなかった。
理沙は、ハッと気が付いて、目を覚ました。
「夢だったのかしら?」
そう、バーのことも、一度店に行くことから離れて久しぶりに行くと、そこに見知らぬ男がいたこと。そしてその男と心中したのではないかと思ったこと。
看護師に心中と言われて驚いたのは、心中する夢を見たことがあったが、それがその時の男だったということ。そこまで目が覚めて感じたその時は、弥生と初めて話をする、ほんの少し前のことだったのだ……。
◇
入院している弥生の元に、見覚えのある名前で花が届いたのだが、本人が姿を現すことはなかった。それは弥生が理沙と初めてラウンジで顔を合わせた日の昼間のことだった。
見覚えのある名前は男性で、その男の名前を見た瞬間、忘れていた何かをいくつか思い出したような気がした。
名前を見た瞬間、まるで血の気が引いたかのようになった弥生だったが、それが自分を自殺に追い込んだ張本人である高校の時の先輩、つまりは以前付き合っていた人だったのだ。
頼った相手に裏切られ、失意の淵に落ち込んだ時のことは今でも思い出せる。ただ、思い出したくない思い出であることは事実で、弥生にとっては、
――何を今さら――
という思いでいっぱいである。
――あの男のせいで、私は前を見ることができなくなり、今を生きることしかできなくなったんだわ――
そう思うと、自分の今の状況、記憶が欠落していることの原因の片鱗が見えてきたような気がした。
前を見ることができなくなったことで、前を見ていた時に感じていた意識が記憶として残っていたのかも知れないその部分が、欠落してしまっているのではないだろうか。そう思えば、記憶を喪失したわけではなく、記憶が欠落しているという一段階軽い症状になっているというのも理解できるというものである。
弥生は、再入院してから次第に記憶に対しての考えが少しずつ変わって行った。
最初は当然、欠落した部分があることで他に何か身体や精神的な部分で、問題がないかどうかを検査する必要があると思ったのだが、それも欠落した部分を思い出したいという気持ちの強さからだった。
だが、今はもちろん、身体や精神的な他の部分で問題がないことが前提であるが、記憶が戻らなくてもいいような気がしている。
記憶が戻る時、欠落した部分に遡って、そこから記憶が形成されることになるとすれば、今の記憶がなくなってしまうのではないかという懸念があったからだ。
だから、なるべく入院中に感じることは意識しないようにしようと思っているのだが、なかなかそう簡単に行くものではない。特に理沙のことを気にしてしまっている時の自分は、それまでの自分とは違っている。逆にそれまでの自分と違っていることで、記憶が消えることはないのではないかとも思うが、それも可能性としては低いもので、確証があるわけではない。それならば、わざわざ欠落した部分の記憶を思い出す必要もないのではないかと思うようになった。
――記憶が欠落するには欠落するなりの理由があるからだ――
と考えられなくもない。
風邪をひいて発熱した時を考えていた。