心中未遂
――幸せボケ――
というには、大げさだが、せっかく別世界として自分の中で区切りを付けていたはずの感覚が、曖昧になってきたのが原因だった。
スナックでの世界が別世界として幸せを感じていたのだが、自分が思っていたよりも、早く別世界が「溢れて」きたのだ。
溢れてくると自然と普段の生活の中で、溢れ出た「別世界」を意識してしまう。普段の自分の中に幸せいっぱいの自分が同居することによって、一度は忘れてしまった二重人格への思いが顔を出すようになってくる。
別世界が溢れてきたという意識が最初の頃はなかったので、別世界では幸せは相変わらずなのに、普段の生活の中で、急に降って湧いた二重人格だという意識が理沙の中で心境の変化を一気に醸し出すようになっていた。
――私が二重人格だなんて――
別世界の自分もいるので、意識的には三重人格だ。二重が三重に増えたことで、それだけでは収まらないという思いが。多重人格を仄めかしているように思えてきて、理沙は次第に自分が分からなくなっていくのだった。
自分が分からなくなると、そこから先は、坂道を転げ落ちるようなものだった。今まで何も意識していなかった人が信じられなくなったり、人が信じられないと、仕事もうまくいくはずもない。怒られて何も言い返せない自分が腹立たしくなり、一度自分が腹立たしくなると、そこから先は席を切ったように、自己嫌悪が潜在しているようになる。
自分が信じられないのに、人が信じられるはずもない。せっかくの別世界で幸せだった気持ちが、別世界ではなくなってくるほど、バーに行っても楽しくなくなってきた。
次第にバーにも立ち寄らなくなる。すべてが悪い方に展開していき、
「まるで天中殺だわ」
と、諦めの境地すら生まれてくる。
その時、自分が鬱状態に陥っていることに気が付いた。学生時代に一度鬱状態に陥ったことがあったが慢性化しなかった。すぐに鬱状態だった頃のことを忘れ、さらに鬱状態だったという事実さえも、
――ウソだったんじゃないかしら?
と思うようになっていった。
鬱状態というのは、何をやっても楽しくなく、すべてが悪い方に向かい、まわりの人が近寄ってくるような気がして、反射的に逃げてしまうような状態のことだと自分で思っていた。
そのうちのどれが一つ欠けても、鬱状態だとは言わないと思っていたが、その時は、すべてが理沙の中にあったのだ。
――鬱状態って、本当にあったんだ――
今さらながらに思い返したその時、そのまま死んでしまおうなどという思いがあった。もちろん、初めて感じたことであり、本当に死ぬようなことはなかったが、もしその時に死を意識することがなければ、心中などという結果を引き起こすことはなかったのではないかと思う理沙であった。
理沙が一緒に心中することになった男、名前を理沙は知らないが、彼と知り合ったのは、気分転換のつもりで久しぶりにバーを訪れたその日だった。
バーではいつものようにマスターがカウンターで洗い物をしていたのだが、その日は珍しく他にお客さんがいた。
珍しいという表現はおかしいかも知れない。そう感じるのは理沙だけで、いかにも自分中心の考え方だ。以前は来る曜日も大体決まっていて、その曜日に客がいなかっただけで、他の曜日に客がいるかも知れないということは分かっていた。しかし、いつの間にか自分が来る日は他に客はいないという考えが凝り固まってしまったのは、
――幸せな気持ちの時は、まるで自分中心に世の中が動いている――
という錯覚を覚えるからだ。
その日はいつもの曜日と同じであった。久しぶりとは言いながら曜日を変えるのは自分の中で気持ち悪かったからだ。店に入って飛び込んできた光景で気になったのは、そこに人が一人いたからではない。それよりも何よりも、店の中が小さく感じられたからだった。
しかも、元々暗い店内だが、さらに暗く感じられたわりには、色はハッキリと見えた。
緑に見えたものが真っ青に見えたり、赤い色もまるで血の色のように真っ赤だった。ワインカラーをイメージしていた自分が、目に刺激を与えたくないという意識があったからではないかと思ったが、目の前に広がる景色に前と一部の違いもないくせに、まったく違って見えるのは、なぜなのだろう?
見えていた光景は、以前であっても、角度を変えるとまったく違う光景に見えるのではないかという思いはあった。だが、どのように違うのか、理沙には分からなかったが、実際に見てみると、以前に違った角度で見てみようと思わなかったことが悔やまれる見え方だった。
客は男の人で、丸めた背中は小さく見えて、そのせいで、身体も小さな人だということは一目瞭然だった。
理沙が入って来ても、まったく意識することはなかった。後ろを振り向くこともなく、後ろに何があろうと、カウンターについた肘をのけることがないだろう。
マスターも最初に理沙の顔を見て、一瞬ホッとしたような顔をしたが、すぐに洗い物を始めた。
――どうして、そんなにそっけないの?
最初のマスターの態度を見て、
――私って、ここにいてはいけない人間なの?
と感じるほどだった。
一瞬返しそうになった踵を思い止まると、決意が鈍る前にと思い、急いで指定席に腰かけた。
「マスター、いつもの」
「はい」
マスターがチラッと、横の男性の顔を盗み見たのを、理沙は見逃さなかった。
――マスターは、もう一人の客に気を遣っているんだわ――
と思うと、この客が常連ではないことを表していた。ただ、一見さんにも見えなかった。理沙がこの店から遠のいてからの一か月とちょっとくらいだろうか。それだけの間に常連になろうとするなら、愛想の良さが不可欠であろう。
「理沙ちゃんは、体調よくなったかい?」
店に来なくなったのはいきなりだったので、マスターには本当の理由は分からなかったはずである。一番考えられることで、しかも、一番訊ねやすいのが体調を崩すことを理由にすることだったに違いない。
「ええ、何とか大丈夫です」
理沙もその言葉に合わせた。合わせることが、この場では一番いい選択だと思ったのは、カウンターの男性がどんな人か分からないということと、マスターが気を遣っているということで、話を曖昧なままにしておくことが一番いいと思ったからだ。
――まったく知らない人に、精神的なことを言っても仕方がない――
と思ったからで、まさか、その後、この男と心中してしまうようなことになろうなど、想像もしなかった。
今から思えば、どうして死のうなんて思ったのか、自分でも不思議だった。いや、自分が一番不思議なのだ。
その男の横顔は不気味としか思えなかった。なるほど、最初に感じた通り、身体は大きくなそうだ。飲みながら何を考えているか分からない様子に、
――今日はすぐに帰ろう――
と思った理沙だった。
それがすぐに帰らなかったのはなぜだろう?
この男には、理沙を引き付ける何かがあった。
――もし、彼も私と出会わなければ、死のうとまで思わなかったのかも知れないわ――