心中未遂
その時、プツンと弥生の中で何かが切れた。
音を聞いたような気がするくらいに一瞬何が起こったか、分からなくなっていた。
「弥生ちゃん、もうここはいいから、洗い物してくれるかしら?」
一瞬のタイミングを見計らって、ママが弥生を制したおかげで、その場が崩れることはなかった。
ただ、その時の憤りをどこに持って行っていいのか分からないまま、その場を離れただけでは、店側はそれでもいいかも知れないが、弥生の気持ちが収まらない。
ママは後になってから、
「スナックというところは、たまにああいうお客さんもいるのよ」
と言ってくれたが、慰めにはなったが、本当の意味での精神的な復活にはならなかった。
その時、初めて弥生は
――自分の精神をコントロールできないこともあるんだ――
と感じたのだ。
しばらく弥生の顔から笑顔が消えた。それは自分で分かっているとよりも、まわりの方がよく分かっていたようで、
「あの時の弥生ちゃんは、声を掛けることもできないほどだったわよ」
と、先輩から笑い話にされるが、本人は苦笑いをするしかない。
ただ、その先輩にも同じようなことがあったらしく、
「私は前から自分が躁鬱症なのは分かっていたから、何とか対処できたけど、弥生ちゃんはその時初めての鬱だったわけよね。よく頑張ったわ。でも、これもいい経験として勉強だと思える日が来るわ」
と言っていたが、まさしくその通りである。
◇
理沙が心中した相手と出会ったのは、三か月前だった。その日は馴染みのバーでいつものように呑んでいた。普段から一人の理沙は、夕食をそのバーで済ませることが多く、特に仕事でストレスを抱えた時、バーの食事と適度なアルコールが、慰めとなっていたのだ。
バーに行き始めたきっかけは、人からの紹介というわけでもなく、一人でフラッと寄ってみたのがきっかけだった。
理沙とバーのマスターはすぐに意気投合し、話もよくするようになっていた。そのバーに行き始めたのは、三年くらい前からだっただろうか。本人は三年も経っているという意識がないほど、この三年間はあっという間だった。
仕事は事務関係だったので、毎日にあまり変化がなかった。普段は家と会社の往復ばかりで、たまにバーに立ち寄るくらいで、それ以外はどこに寄るというわけでもなく、当然出会いなどあるわけもない。
出会いがなければ、楽しみなどあるはずもなく、それだけにバーに来る日は、マスターとの話に花が咲かせることだけが楽しみだった。
話をしていると、楽しい時間ほどあっという間であるということを、今さらながらに知らされた気がした。
逆に言えば、理沙は居酒屋や、スナックなどの店にほとんど寄ったことがない。会社の忘年会で居酒屋に行くくらいで、それも喧騒とした雰囲気に馴染めず、辛いものにしかならなかったのである。
いつの間にか一人でいることが当然と思うようになっていた。バーのマスターと話をすることは、自分の別の世界のように思っていたからだ。バーに行こうと決めてから、その日は最初から普段とは違う日だという意識を持って望んでいた。特別な日であることには違いないが、その日は自分にとって、「別世界」だったのだ。
別世界にしてしまう理由はちゃんとあった。
普段と同じ意識でバーに行く日を迎えていたら、その日の始まりから、バーの中での途中の時間まではいいのだが、途中から急に我に返ってしまう。
――明日から、また普通の生活に戻るんだわ――
と思ってしまうと、普段から一人でいることを自覚しているつもりのくせに、その時だけは、寂しさがこみ上げてくる。
しかも、普段から、
――自分は一人だと自分に言い聞かせている――
という意識があるだけに、その気持ちが、本当の気持ちを抑えているのかも知れないと思うと、楽しい時間が過ぎ去ってしまおうとする時間に、無性に寂しさを感じてしまうのだ。
――抑えが利かなくなる時が、私にも存在するんだ――
と思う瞬間であり、理沙は自分の性格を呪うくらいに苛立ちを覚えてしまうのだった。
バーのマスターは、三十歳代後半で、三十歳くらいまで他のお店で修行して、今のお店を出したという。客の入りはあまりいいとは言えないが。マスターを慕ってやってくる客も少なくないという。
理沙もその中の一人だが、マスターに対して、なぜか男性としての意識はなかった。マスターに男気がないというわけではない。むしろ理沙のまわりの男連中にはない野性的な部分を醸し出されていて、男らしさという面では十分だった。
それなのに付き合ってみたいなどと考えないのは、兄のような雰囲気、さらには父親のような雰囲気すら感じさせるからだった。一緒に話をしていて、
――この人のいうことなら信じることができる――
と思えるのは、他にはいない。
マスターと理沙の関係は、親子関係に近いかも知れない。本当の親子ではないことが理沙にはちょうどいい。他の客がマスターを慕ってやってくることにも嫉妬を抱かないのは、本当の親子ではない父親を見ている感覚だったからなのかも知れない。
理沙にとってマスターと自分との関係は、他の人には理解できないものだという感覚もあり、しかも、マスターも同じように感じてくれているという一種の絆が、理沙の毎日を支えていた。
だから、理沙にとってはその日だけは別世界なのだ。
――普段の自分にさえも犯すことのできない一日――
だと思っている。
その頃から、理沙は自分が二重人格ではないかという意識を持っていた。別世界を意識することは、二重人格という疑念を拭い去るためにも重要な意識だった。
理沙がバーにいる時、他にお客さんがいないわけではない。だが、バーには一人で来る客も多いというのに、理沙が来る日はほとんどが、カップルだったり、女の子同士だったりの客ばかりだった。
理沙は大学時代にも馴染みの店があり、そこは喫茶店だった。毎朝学校に行く前にモーニングセットを食べるのが恒例で、その時は人と話をすることはなかった。置いてある雑誌を片手にコーヒーを飲んだり、トーストを口に運んでいる。馴染みの店とは、そういう存在だったのだ。人と話すというよりも、むしろ一人の時間と空間を楽しむ、バーでの時間とはまったく正反対だった。
マスターもそんな理沙を気に入っていた。
「バーというところは、普段の生活に疲れた人が、休息を求めて、隠れ家として利用してくれるのが嬉しいところなんだよ。だから、なるべくおいしいものを提供し、憩いの時間を楽しんでほしいというのが本音だね」
というのが、マスターの意見だった。
そういうことであれば、理沙も思い切りリラックスした気持ちになりたい。自分の求めていることを、相手が与えてくれて、しかもそれが癒しであり、癒しを感じることを喜んでくれるなど、話を聞いているだけで、包み込まれるような心地よさを感じる。
精神的な快感は、肉体的な快感と違い、くすぐったさだけでも全身を駆け巡るのを感じる。
――お金を払ってでもそんな時間を与えてくれるのなら、最高だ――
と感じるのだ。
そんな理沙がいつ頃からか、幸せが飽和状態になってきているようだった。