心中未遂
しかし、それではいけないと思ったことで、スナックでアルバイトをしようと思ったのだが、どうしても自分の中にスナックなどの水商売に対して違和感と偏見があったことを今でも認めないわけにはいかないだろう。
それでも弥生はママと出会って、偏見だけは拭い去ることができたが、違和感だけは残ってしまった。
違和感の正体が分からなかったからだ。
今から思えば違和感の正体は、
――私のいる場所は、本当にここでいいの?
というものだった。
今から思えば、最初に感じて当然の違和感のはずだが、その時になぜすぐに気付かなかったのか分からない。最初に気付かなければ、あろから気付こうとしても気づくものではない。違和感とは得てして、そういうものが多いのではないだろうか。
スナックにいる時間は、それこそ別世界だった。別の次元の時間が経過していて、本来自分がいるはずの次元の場所での時間、自分は一体どうなっているというのだろう?
そのことを考えると、同じ時間の違う次元に、もう一人の自分が存在しているのではないかと思えてきた。そして、違う次元の自分を意識することは、
――夢を見ている――
ということにして、夢の世界の自分だと思い込んでいる。次元の違いだという意識をまったく持っていなかったのかというと持っていたのかも知れないが、持った時に、
――夢を覚えていない――
という意識に繋がっているのではないかと思うのだ。
夢というのは、いくらでも自分の中で勝手な解釈ができるものだ。
次元の違いを夢として解釈するのもその一つだが、欠落してしまった記憶も、最初は夢のようだと思っていたことも事実だ。
今では欠落した記憶を夢だとして単純に理解することはなくなったが、欠落した記憶は、ひょっとすると、今までに夢として見たことがあり、目が覚めるにしたがって忘れて行ったものではないかと考えるのも無理のないことだと思う。
むしろ、その方がスムーズな解釈ではないかと思うほどである。スムーズな解釈をするには、一度忘れてしまった方が意識としては強いものが残るのかも知れない。
それは、必ず一度は思い出すからだ。
忘れてしまったことを再度思い出すというのは、思い出した時、
――忘れてはいけないことだから、思い出したのだ――
という理屈の元に思い出すことになる。だからこそ、欠落した記憶と夢との関係を思うようになってくる。
スナックに入った頃、つまり一番輝いていたと思う頃に、実は一番最初に躁鬱症を感じた。その時は初めて感じた躁鬱症であるにも関わらず、
――以前にも同じような感覚を味わったことがあるような気がするわ――
と思った。
その時は意識しなかったが、いわゆる「デジャブ―現象」である。
――一度も行ったことがない、見たこともない場所なのに、以前にも来たことがあるような気がする――
という思いに至る時、それをデジャブ―現象というのだということは、学生時代から知っていたことだし、実際に他のことでも何度かデジャブ―を味わったことがあった。
「実におかしなものよね」
「何が?」
「一度も行ったことがないのに来たことがあると思うのは、いつも小学生の頃、父親から嫌だというのに無理やりに引っ張って行かれたという感覚があるのよ。まったく違う場所を感じるはずなのに、おかしいわね」
友達との会話を思い出していたが、その話をした数日後に、友達は親の転勤で引っ越していった。友達は寂しそうな顔をしながら、
「あんなこと口にしなければよかったわ」
「あんなこと?」
「ええ、デジャブを感じたことよ。前もそうだったわ。デジャブのことを口にすると、それから一週間もしないうちに、お父さんが転勤になるの。私は自分に予知能力があるのかしらって思ったわ。でもそうじゃなくて、口に出したことがいけなかったのかも知れないわね」
友達がデジャブの話をした時、まるで別人のようだった。遠くを見つめる目は、弥生の知っている友達ではなく、
――私が知り合う前の彼女を見ているのかも知れないわ――
と、友達の中に隠された部分があり、それが顔を出したと思ったのだ。弥生がそんな友達を見るのは初めてだったので、以前のことだと思って当然であった。知り合う前の友達を垣間見ることができたことで、弥生にも何か胸騒ぎがあったが、それが別れに繋がることだったとは、その時、まったく気付かなかったのだ。
友達の話は、若干作られたところがあったようだが、
――事実は小説よりも奇なり――
ということわざもある。どこまでが本当のことかは確かに分からないが、火のないところに煙が立つわけもなく、まったくでたらめということもないだろう。
もし、まったくの作り話であれば、弥生はその友達を尊敬していたことだろう。ここまでリアルな話を想像することは、それほど難しいと思われた。
スナックに入った頃の躁鬱症には。デジャブが含まれていたことも事実だった。最初に感じたのは、一人の客が原因だったのだが、そのお客さんが悪いわけではなく、弥生が勝手に嫌がっていただけだ。
その客は、弥生の嫌なことばかりを口にする。
「どうして、君のような子が、スナックなんかにいるんだい?」
悪気はないのかも知れないが。客側にスナック内でのマニュアルがあるならば、
「口に出してはいけないこと」
の欄に必ず含まれているに違いない。
「店の女の子のプライバシーに関わること」
に繋がるだろう。
マナーに関わるところであり、店側が点数を付けているとすれば、大きなマイナスになっているに違いない。
接客側からすれば、客に点数をつけるなどあってはいけないことなのかも知れないが、敢えてつけるとすれば、それは減点法であろう。
百点からどんどん減算していって、最終的に何点になるかであるが、最終的なものがいつになるかが分からないことで、ボーダーラインを設けるに違いない。ボーダーラインを超えるとイエローカード対象となり、それが目に余ると、出入り禁止のレッドカードになるに違いない。
口に出してはいけないことを、連発する客ばかりではないと心では思いながらも、
――どうして自分だけ?
という思いが強かった。
――まさか、これがスナック務めを始める試練のようなものはなあるまい――
と感じるほどだった。
その客は、弥生の中では「レッドカード」だった。その客は弥生のことを最初から新人だと思って、言いたいことを言っていたのだ。他の女の子には言えない性格、つまりは、相手が自分より弱い立場であれば、高圧的になったり、上から目線をあからさまにしているのだ。逆に相手が目上だと思うと、露骨なまでの遜った態度を取るようだ。
さすがにスナックに慣れていないとはいえ、弥生にもよく分かった。そんな男だと思って、弥生もわきまえようと思った。普段ならできたのだろうが、やはり慣れていないスナックの中でのこと、急に自分の気持ちの持っていき場所が分からなくなったのだ。気持ちは落ち着いているのに、どこかに苛立ちを感じる。
――苛立った様子を店の中で見せてはいけない――
という気持ちが表に出てくれば出てくるほど、弥生は自分を抑えることができなくなった。