心中未遂
前を本当に見ているのかどうなのか、後から本人に聞いても、まったく覚えていないというのだから、前が見えていたかどうかも怪しいものである。だが前を見えないまま進めばどこかにぶつかったりするはずだし、目はカッと見開いているのだから、彷徨っている間は、本当に意識があるのだろう。
だが、それが普段表に出ている自分とは違う自分であることはハッキリしている。自分の中に「もう一人の自分」がいるという証明が、夢遊病という形で出てくるものなのではないかと、弥生は感じるのだった。
この思いは最近になって思い始めたものではない。以前から感じていたことで、夢遊病に自分もそのうちになるのではないかと思っていた。それよりも先に夢遊病になった人を見ることになるとは思わなかったが、ただ、それも誰にも気付かれないだけで、本当は夜彷徨っていたのかも知れない。
夢遊病の人は、夜彷徨っても、戻ってきて、寝付いた時そのままの状態に戻っている。もう一人の自分は、元の通りにしておかないと、自分が裏に下がることができず、いつも表に出ている自分を逆に封印してしまうことを知っているのだ。普段裏にしかいない自分が表に出ることなどできるはずもなく、結局は元の通りに戻ってきて、表に出ている自分に夢遊病を悟られないようにしないといけない。人に見られたのであれば仕方がないが、自分からボロを出すようなことは決してしてはいけないのだと感じているに違いない。
「夜の闇に何か思い入れのようなものがあるんですか?」
弥生はやっと我に返って訊ねてみた。弥生を見ていていろいろと思いを巡らせていたくせに出てきた言葉はこんな言葉しかないのだ。
「思い入れというほどのことはないんですけど、目を瞑ると、いろいろなことを思い出すんですよ」
「それでは、あなたは思い出したいことがそんなにたくさんあるということなんですか?」
「ええ、そのはずなんですけど、それが思い出せないから、また目を瞑ってしまう。瞑った目の先に何が見えるのか、それが本当に思い出したいと思っていることなのかが分からないから、怖い気がする。だから、思い出そうとしても、思い出したくない自分がいることをその時初めて意識する。そんな自分の存在を初めて感じたことが怖いと思っているのかも知れませんね」
理沙の話は、一度聞いただけでは分からない。だが、なぜか意識が反応するのか、心の中で頷いている自分を感じる。それは弥生自身も、記憶の欠落を感じているからなのかも知れない。
だが、理沙の話は頷けても、自分の記憶の欠落が、理沙と同じようなものだという意識はない。記憶の欠落にもいろいろ種類があるように思う。
一般的に言われるのが、思い出したくないような恐ろしいことを目の当たりにして、意識が思い出したくないという思いにさせてしまったこと。ショッキングであればあるほど、自分の殻に閉じ籠ってしまう意識が、記憶を欠落させたように思うのだ。
ただ、記憶の欠落と記憶の喪失では同じものなのだろうか?
記憶喪失というのはよく聞くが、記憶欠落とは耳にしたことがない。しかし、実際に記憶喪失とはどのように違うのか、弥生はいつも考えている。
弥生が考えた記憶の欠落は、一つの繋がっている出来事の中に、大きな穴が開いていて、始まりと終わりは存在するのに、途中が消えていることである。
記憶喪失は、一つの出来事のような一つの単位ではなく、一人の人間の記憶が過去から現在に至るまで、重要な部分が消えてしまっていることだ。そのために、ひどい人は、自分が誰であるか、何をしてきた人間なのかという記憶まで失っている。
理沙の方は、記憶の欠落ではなく、記憶喪失に近い方であろう。明らかにショッキングなことを目の前にして、そのせいで、記憶を失ってしまった。自分が誰であるかということは分かっているようだが、話をしてみないと分からないこともあるだろう。馴染みの看護師さんの話では、
「理沙さんという人は、重い記憶喪失ではないみたいなんだけど、普通と違うところがあるのよね」
という話だった。
どういうことなのか、ハッキリとは聞かなかったが、聞いてもそれ以上話をしてくれる様子でもなかった。
「直接、聞いてみようかしら」
と、半分冗談、半分本気で話したが、
「それがいいかも知れませんね」
と、看護師が答えた。彼女も、半分冗談、半分本気で答えてくれたのかも知れない。
弥生は、看護師との会話で、
――半分冗談、半分本気――
という意識を強く持っている。
「私は、学生時代から、まわりと一緒だというのを嫌う性格だったんですよ。捻くれているだとか、天邪鬼だとか結構言われましたけど、それも慣れてくると、嫌ではなくなりました。却ってそう言ってもらえる方が気が楽になったくらいですね」
彼女はいつも半分顎を上げるような雰囲気で、どこまでが本気なのかと思わせるような口調が多かった。知らない人が見れば、バカにしているように見えるかも知れないが、弥生には、逆に親近感として写った。その表情に笑顔が感じられたからだ。
元々ポーカーフェイスなのか、あまり表情を変えない彼女が笑顔を見せるのは、顎を少し上げて、斜め上から見つめる時だった。
――言葉で書くと一つの表現でも、示す人によって、まわりから見た時、まったく違ったイメージで見えるのかも知れないわ――
彼女のことを決してよくは思っていない人も多いだろう。
「私を舐めてるのかしら?」
と、相手に思わせてしまうところがありそうだからだ。
だが、本当はそんなことはない。これが彼女なりの考え方なのだ。
――顎を引いてしまうと、下から睨みつけているように見えるからだわ――
確かに彼女が顎を引いて真面目な顔で話しかけてくる顔を想像すると、あまりいい印象はない。きっと、そんな相手に気を許そうなどとしないだろう。今の看護師さん相手であれば、信頼感を感じることができる。不安に思っている入院生活も彼女がいれば安心できる。
――彼女は、損な性格なのかも知れないわ――
とも感じたが、
――いや、待てよ?
もう一つ違う考えが頭を過ぎった。
――彼女のことを分かってあげられる人は、本当に心の広い人なんだわ。そういう意味では、しっかりした人ばかりが寄ってくることで、友達を取捨選択する必要もないんだわ――
とも思えた。
もちろん、その中には弥生自身も含まれていた。そして、もう一人理解者がいるとすれば、理沙ではないかと思っていた。本当に気持ちが分かる相手であることを悟るのは、自分が本当に話してほしいことを口に出して言ってくれる人だと弥生は思っている。アイコンタクトで理解できる人もいるだろうが、本当にそんな人は稀であるに違いない。
理沙と話をしていて、看護師のことを思い出したのは、彼女が理沙に雰囲気が似ていたからだ。
看護師が自分の話を少ししてくれたことがあった。
「私も看護学校にいる頃、実は医学生の人と恋愛したことがあったんですよ」
「へぇ、そうなんですか?」