短編集19(過去作品)
「ええ、私もあっという間に過ぎた気がするの。まるで浦島太郎になったみたい」
時々、由紀子は変な比喩をする時がある。それが彼女の感性であり、魅力のようなものだと思っていた。それだけに単純に聞き流さなかったが、そのほとんどが、考えても結論の出るものではなかった。
――浦島太郎――
またしても、分からないことを言っている。どういうことなのだろう?
感覚的には分かる気がするのだが、考えれば考えるほど結論は出てこない。きっと、
――限りなく私に近い感性を持った女性――
なのだろう。
まさか最後にその意味を思い知らされることになろうとは、思ってもみなかった……。
そういえば、最近の由紀子の身体は完全に私に馴染んでいるように感じる。最初に感じた興奮が冷めるわけではなく、それだけ私に染まってきたのだろう。それを私は嬉しく感じていた。
しかし、どちらからともなくぎこちなさを感じてきたのは、間違いなくその日だったのだ。次がないかのように由紀子の身体を貪った。由紀子もそんな私の気持ちと身体を受け入れるかのように、出会った頃を思い出すような興奮を示している。
不思議なもので、最初の頃と同じ興奮のように思えてもまったく同じではない。
芸術家がもう一度まったく同じものを作れと言われて不可能なように、まったく同じ興奮などありえないのだ。それだけに何となくではあるが、虚しさをようなものを感じた。最後だと思った根拠があるとすれば、その思いだったような気がする。
その日、次の約束をすることもなく、お互いに別れた。
翌日同じ電車の車内で会えると、たかをくくっていたのもあるからだろう……。
翌日、いつもの車内はそれほど混んでいなかった。いつもの時間、いつもの車両である。
何かが違うことに最初は感じなかった。いつも乗ってくる人の顔をみんな覚えているわけではないが、少しでも違えば、その変化には敏感である。
車内の乗客に変化はない。しいて言えば、いつもより少し少ないくらいであろうか。それも曜日によって違うのは分かっていて、その日は少ない日だということもあって、不思議ではないはずだ。
――そろそろ由紀子が乗ってくる時間だな――
心の中で呟いていた。
これはいつものことであり、そのたびに心がときめいてくる。
しかし、その日に心のときめきはなかった。いつも想像している「私の由紀子」の表情が思い浮かばないからである。その表情を見ることで安心もする。電車内での由紀子はそんな存在であった。
今夜も仕事で遅くなった。
由紀子と出会わなくなってどれくらいの日が経ったであろう。最初はその姿を必死で探していたのだが、今はそんなこともない。
――もし見かけたらどうしよう――
とまで思うくらいで、自分から話しかけることをしないような気がする。
「不倫」という言葉の意味を深く感じているわけではない。しかし、少しだけ臆病になっているのは、自分でも分かってきた。
――なぜか顔が思い出せない――
思い出そうとすればするほど思い出せない。
電車に乗っていれば思い出せるような気がしていた。最初に会ったのが電車の中だったからである。
電車の中というのは不思議な力がある。
それは揺れによって起こるもので、いつも襲ってくる睡魔もその一つである。
由紀子と出会ってから、特に電車の中で寝てしまってから夢を見ることが多くなった。それはまさしく「妄想」といえるもので、ある意味、「妄想」を抱きたくなることで、睡魔が襲ってくるのではないかと思ったことさえあった。
真っ暗な中に、まるでシルエットのように白いものが浮かんでくる。それはクネクネ蠢いているようで、淫靡な動きに違いない。後ろ姿かと思えば、胸の辺りに見える隆起によって、女性がこちらを向いている姿であることは、すぐに確認できた。
――由紀子なのか?
一瞬頭をよぎったが、顔は確認できない。それよりも押し寄せてくる快感のため、思考能力は皆無に近かった。
――夢を見ていながら、その中でも眠くなってくる――
そんなことを感じてくると、完全に快感が私を支配していた。考えてみれば不思議なことである。夢の中での睡魔など、夢を見ているという実感があること自体不思議なのに、さらにそこから起こる睡魔を感じるなど、由紀子と出会うまでは、そして夢という形の「妄想」を感じるまではなかったことである。
――本当に夢を見ているのだろうか?
そんなことまで考えてしまう。
「妄想」が夢であってほしくないという思いなのかも知れない。
――まったく同じ夢を見ることはできないだろう――
以前に考えたことがあった。
例えば同じ題材で作文を書かされるとする。それも、間をおかずである。その時に同じような作品を書こうと考えてできるであろうか?
きっと不可能である。最初の作品も次の作品も、世界でたった一つしかない貴重な作品なのだ。
――すべてが幻だったのかも知れない――
正義感の強い私が見たひと時の戯れ、それが由紀子だったのかも知れない。
そう感じると、なぜか安堵の溜息が漏れてくる。由紀子の顔を思い出さないことに安心感を覚えるのだ。
おっと、もうすぐ私の降りる駅だ。今日も気持ちよく眠っていたのか、手足に痺れのようなものを感じる。
――ああ、まだ眠っていたいのにな――
頭をよぎった甘い誘惑だったが、それも一瞬のことだった。ゆっくり横を見ると、一人の初老の女性が私の横を通り過ぎて、急いで出口へと向っていた。
見覚えのあるその後ろ姿だと思いながら、私も出口へと向かったが、背筋がシャキッとせず、なぜか身体が重たく足腰がしっかりしていない自分に気付いたのは、扉を抜ける瞬間だった……。
( 完 )
作品名:短編集19(過去作品) 作家名:森本晃次