短編集19(過去作品)
その時の私は部室から出てくる麻衣を待っていたのかも知れない。適当に本棚から本を選んで読んでいるつもりだったが、それでも知らず知らずにその本に集中していた。もちろん麻衣を気にしながらであったが、本を読む楽しみを知ったのだ。
「落ち着いた気分になれる」
これが読書に対する率直な気持ちだった。
本を読むことでさらに図書館に対する思いが深くなっていった。本屋に行くのは嫌いではない。ほとんどが雑誌のコーナーであって、文庫本のコーナーなど見たことがなかったが、今度文庫本も見てみようという気にさせられる一つの原因かも知れない。
しばらく本を読んでいると、司書室から麻衣が出てきた。手にはメモのようなものが握られていて、本棚を見上げるように本の背を上の段から目で追っているのが分かった。どうやら探し物があるようだ。
先ほどの山のような資料から考えて、かなり大きな本ではないかという気もしたが、どうやら違うようだった。彼女の見ているコーナーは辞書や、資料を置いてあるコーナーではなく、普通の単行本のコーナーだったからだ。
しばし本を読むのも忘れて彼女の顔をじっと見ていた。彼女の表情は上を見上げているわりには真剣そのものの顔をしていて、普段温和な彼女の顔からは少し想像できなかった。
――きっとあれが彼女の本当の顔なのかも知れない――
普段の温和な顔というのは、きっとその人の余裕を持った心から生まれてくるものだと思う。心に余裕を持つということは、まわりの中での自分の位置や、自分の行動がどのようにまわりに影響を与えるかなど、常に考えていなければできないことだ。それには、キチッとした自分がないとできないことである。
自分を持つというのはどういうことかなど、まだ私には分からなかった。特に多感な中学時代など、自分を持つことと、自分というものを表に出すこととを混同して考えていたような気がする。
自分を出そうとすると素直に顔に出てしまい、露骨なまでの表情に余裕など生まれようはずもない。温和などという言葉が程遠くなってしまうことだろう。
――自分に厳しく、他人に優しく――
というが、まさしくその通りである。麻衣を見ていると普段は他人に優しいところしか見せていないが、きっと陰ではさぞかし「自分に厳しい顔」をしているのだろう。それが自分のことをしている時の真剣な眼差しに見られるのだ。
「あれ?」
彼女は私に気付いたのか、一瞬顔に笑みが零れたかと思うと、こちらを振り向いた。笑みが零れるのと、視線が合うのはどちらが先かと思っていたが、どうやらほとんど同時だったような気がして仕方がない。
みるみるうちにいつもの温和な表情に変わっていく。
「探し物ですか?」
「ええ、少し見てみたい本があったんですけども」
見れば探し物をしていることなど一目瞭然なのにもかかわらず、聞いてしまう私は、顔が真っ赤になっていくのを感じた。なかなか見つからずに困っているはずなのに、そんなことをまったく表情に出さないのも彼女の性格の一つなのだろう。
相談に来た時の麻衣と、本当に同一人物なのだろうかとまで、今さらながらに思ってしまう。それほどあの時の麻衣の表情は私の想像の及ぶものではなく、後から思い出すことも難しいほどだった。
麻衣の目が潤んで見える。図書館という雰囲気がそうさせるのか、自分の顔が知らず知らずに微笑んでいってるのが分かる。今までは、女性の正面に立っただけで、緊張した面持ちに変わっていったはずである。元々すぐに顔に出るタイプの私は、それを素直だからと思っていたが、よくよく考えると気持ちに余裕がなかっただけだということを思い知らされるのだ。
――今は気持ちに余裕があるのだろうか?
自問自答を繰り返すが、返ってくる答えはまさしくそれ以外にはなく、相手が麻衣だからなのか、図書館という雰囲気によるものなのか、すぐには判断ができなかった。しかし少なくとも図書館には、それだけの雰囲気があるような気がして仕方がない。
しばし空気が固まってしまったかのような気がした。表が蒸し暑いせいか、室内に漂う涼しさは人の少なさも手伝ってか、むしろ寒さを感じるほどである。まったく凍り付いてしまったような空気の中で、威風堂々と並んでいる本棚を見ていると、最初に感じた空間よりもさらに広さを感じてしまうのは気のせいであろうか?
「あ、それは私が探していた本」
そう言って麻衣は視線を私が読んでいた本に移した。さっきまでプロローグあたりまで読んでいた本で、物語の世界に入っていってることに気付き始めたはずだったのに、静寂を破るかのように掛けてきた彼女の声に、すっかりその内容を忘れてしまっている。
「え、この本がですか?」
「ええ、この本は私が一番好きな本で、何度も読み直しているんです。今度これの感想文を書いて投稿しようかと考えていたんですよ」
「そうなんですか、僕はまだほとんど読んでないので内容までは分からないけど、きっと素敵な内容なんでしょうね」
「そうですね。主人公に私をダブらせて読んでいるわ。いかにも女性が書いた女性の本っていう感じかしら」
作者まで確認していなかったので、思わず彼女の話を聞いて、本を閉じてみた。確かに作者は女性で、プロローグのところにポエムのような短文があり、いかにも彼女の言う通り、女性的な雰囲気のある本だ。
「私、実は小説を書いてみたいって前から考えてたの」
「へぇ、すごいじゃないですか。僕は本を読むのが苦手な方だから、尊敬しますよ。図書館や本屋というのは独特な雰囲気がありますね」
「そうでしょう。私もこの雰囲気が好きで、本を読むようになったんですよ。何となく高貴な雰囲気が漂ってくるでしょう?」
そう言ってニコニコと笑っているが、その表情には明らかに余裕が感じられる。余裕を感じる笑顔がこれほどすがすがしく見えるとは、今まで感じたこともなかった。
私が自分の笑顔に気付き始めたのとほぼ同時だったろうか、
「文章を書くのって女性の方が上手なのかも知れないわね」
としみじみ語り始めた。
「どういうことだい?」
「感情の起伏が激しいわりには、落ち着いていて、何よりの言葉に柔軟性があるからかも知れないわ」
頬に小さなエクボを作り、はにかんで見せた。彼女の自信が身体中からみなぎっているように見える。彼女は続ける。
「あなたを見ていて思ったんだけど、きっといい文章を書けると思うわ。変な意味じゃなくて女性的なところがあるように感じるもの」
「え? 僕に?」
一瞬、何のことを言っているのか分からなかった。白黒ハッキリつけたがる私は、国語のようにハッキリしない科目は苦手だった。数学のように公式に当て嵌めて解く学問が私には似合っていると思っていたからである。
そういう意味で、性格的にはおおざっぱなところもあることから「男性的」だと思っていた。いい悪いという答えを求めるものではなく、漠然とした思いではあったのだ。
「今日のあなた、表情に余裕が見られる気がするの。いつもと顔色が違うっていうのかしら」
作品名:短編集19(過去作品) 作家名:森本晃次