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短編集19(過去作品)

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 もし隣に誰かいれば、
「どうしたの」
 と、心配してくれるに違いない。しかし、幸か不幸か今は私一人である。夜寝るのが怖くなる時もあるくらいで、一人で寝る方が却って気楽なのかも知れない。
 死ぬ夢というのは、もう一つパターンがあった。それは実際に死ぬ思いをする夢ではなく、死に行く自分を客観的に見ている自分がいるのだ。実際に自分が死ぬわけではないのでそれほど恐怖がないようにも感じるが、実際起きてみると、汗は同じくらいに身体から吹き出している。
 しかもこちらの方が、目を覚ましてからも覚えていることが多い。実際に自分が主人公の時は死を迎える瞬間には完全に目を覚ましている。しかし、客観的に見ている時は、自分の死の光景を目の当たりにしているのだ。それはまるで映画がドラマのワンシーンのように、生々しく起きてからもしばらくは瞼の奥に焼きついている気がして仕方がない。
 刻々と訪れる死の瞬間を迎えながら生唾をゴクンと飲み込むような、固唾を呑んで見守る群衆に混じっている自分がいる。その自分がどんな顔をしているかは、実際に死刑執行されている自分の目から知っている。そう、死刑執行されるのが自分であると分かっていながら、それを見つめていなければならない辛さがあるにもかかわらず、一番見たくない嫌らしい表情をしているのだ。何ともやりきれない気持ちにさせられることだろう。
 今度は本当に死に至らしめられた自分を目の当たりにしなければならないのだ。いったい私はどんな気持ちで死んでいく自分をみるのだろう?
 不思議なことに、その夢を見た時の自分は、どこで目が覚めるのか定かではない。自分が主人公の時は、ハッキリと執行された瞬間に目が覚めると分かっているのに、客観的に見ている私は、
――ああ、死んでいくんだ――
 と感じたことは覚えているのだが、そこから先、目が覚めるまでは覚えていないのだ。自分が主人公の時覚えている記憶は、死を迎える瞬間だけで、客観的に見ている時の私に残った記憶は、死を迎えるまでの記憶だけなのだ。それが意味するところはやはり、
――夢というものが潜在意識の見せるものだということ――
 という結論に導かせるのだろう。
 夢から覚めると、最初に感じることは、
――本当に夢なんだろうか――
 という一番考えてはいけないようなことである。考えてしまってハッとしてしまう自分に気がつくと、すでに眠気からは覚めていた。その間に、消え行く記憶はすべて消えていて、起きてからの自分が悪夢を見たことに改めて恐ろしさを感じるのだ。
――たかが夢じゃないか――
 何度そう感じたであろうか。そのたびに、
――死ぬ夢を見ると、本当に死が近い――
 と言っていた友達の話を思い出すのだ。迷信に決まっていると感じながら見てしまったことへの後悔と、友達の言葉に反応している自分への腹立たしさが胸の奥から漲ってくるのを感じる。
 あまりにもリアルな夢であり、しかも時代が現代でないことが、記憶に残る原因なのかも知れない。確かに今の日本でギロチンや電気椅子などありえないので、かなり現実離れしているが、それだけに印象に残ってしまう。
――前世はなんだったのだろう――
 これについて考えたこともあった。本当に人間だったのだろうかという思いから、人間だったとしたら、どんな性格でどんなことを考えながら生きていたんだろうということまで考えてしまう。時代が違うので、想像すらつかないが。それが今の自分の中に残っていないと誰が言えよう。そう考えると、夢で見たギロチンや電気椅子も、前世の記憶が見させたものだとも考えられるのだ。
 今の自分を考える時、次の瞬間にはそれが過去になる。さっきまで未来だった自分が繋がっているのだ。しかし、そんなことをいちいち考えてまで行動する人はいない。一歩間違うと次の瞬間には自分がいないかも知れないのだ。
 それはあくまで極論であるが、夢とはそんな自分の瞬間を見つめなおすものかも知れない。潜在意識とは普段は考えていないようなことでも、ふっと考える時があるようなことを思い出させてくれるものだとするならば、夢はそれぞれの瞬間を蓄積しているダムのようなものとも考えられる。
――その時々を大切にしたい――
 皆それぞれ思っているはずの気持ち、それを潜在意識の奥に持っているのだ。
 人の気質にもいろいろあるが、敢えて分けるとするならば、事業家肌と芸術家肌に分けることができるのではないかということを言っていた友達がいた。大学時代の友達だが、同じような発想をしたことがあったので、共感が持て、話に花が咲いたことがあった。
「俺は事業家肌かも知れないな」
 その友達がふっと言ったことがあった。その時に事業家肌と芸術家肌の話になったのだが、漠然と考えただけでも確かに友達は事業家肌だった。
――頼りがいのある兄貴分タイプ――
 である友達を、頼りにしているやつもまわりには結構いるようだ。頼りにされて男気を感じるやつなので、頼る方も他取りやすい。アドバイスも的確で、話をしていても共感を受けるところがいっぱいある。
 人の使い方もうまい。アドバイスが的確なので、指示を受ける方も理解しながらできるのであろう。あまり説明することなく行動に入れるところが事業家肌の特徴なのかも知れない。
 それに比べて私は完全な芸術家肌だ。
 基本は、「自分」なのである。自分がいてそこからまわりの世界が成り立っているという考えであり、ある意味自分本位でまわりを見ていない。人からは、
――あの人は変わり者――
 というレッテルを貼られるが、
「変わり者で結構」
 という考えにいたるのだ。それでも私は開き直りだとは思っていない。自分本位な人間のどこがいけないのかと言いたいくらいで、自分のことも分からないやつが多い世の中、そのくせ、まわりを見ることを優先してまわりに気を遣わない人間を卑下する。そんな連中に比べればいくらかマシだと思っている。
――その他大勢にはなりたくない――
 この考えは事業家肌の連中と共通しているところだ。ただ、そこで自分がまわりに与える影響を考えるのが事業家肌で、自分ができることをしようと考えるのが芸術家肌の違いなのかも知れない。
 事業家肌と芸術家肌、どちらも個性が強いが、きっと引き合うところもあるはずだ。そういう意味で私のまわりには事業家肌の連中が集まっていることが多かった。
「お前は理屈っぽいからな」
 事業家肌だといっている友達に言われたことがある。
「ああ、芸術家肌だからな、ウンチクが多いかも知れないな」
「俺は態度で示す方だからな」
 そう言って笑っていたが、さすがに私も言い返す。
「何言ってるんだよ、僕だって態度で示してるさ」
 自分らしく生きることが、態度で示すことだと思っている。共感できない連中に分からないだけで、共感できる連中にはきっと同じ気持ちを強く抱かせることができると感じている。それがその他大勢ではない証拠だと思っているからだ。
「そっか、ごめん。確かにそうだね。生き様というのかな?」
「分かってるじゃないか。だから君とは友達でいられるんだろうな」
作品名:短編集19(過去作品) 作家名:森本晃次