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鏡の中に見えるもの

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 お互いに尊敬しているところはあるわけではない。絶対にあいまみれないものがあることは分かっているが、それを他の人に感じたことはない。他の人との間で譲れないことがあるとしても、それはあいまみれてこそ感じることであり、最初から諦めるようなものではないはずだ。
 落合の大学時代の経験を久志は知らない。久志も落合には話していないことはいくつもある。
――いずれは話すこともあるかも知れない――
 という程度で二人とも頭の中に置いている。その意識が二人の間の結界を見せているのかも知れない。
 一口に結界と言っているが、結界だと思っているのは久志の方で、落合の方では結界だとは思っていない。何とか乗り越えられると思っている分だけ、落合の方が、二人の関係について考えが甘いのかも知れない。
 しかし、二人の関係をより理解しているのは落合の方だった。そういう意味で二人がうまく行っているのは、相互関係がうまく行っているからなのかも知れない。
 落合は、さっきまで久志と二人きりだった空気の中に、美咲が入り込んできたことを知った。
「申し遅れました。私は萩原美咲といいます。このお店には時々来ているので、これからもよろしくお願いします」
「こちらこそ、僕たちは会社の同僚で、俺は遠山久志、こっちは落合和彦です」
 そう言って、久志が代表して話をした。今までなら落合の方が適任だったのに、この日は久志の方が饒舌である。いつも社交的な落合が、今日は逆の落合になっていた。
 ただ、美咲が気にしているのは落合の方だった。そのことは久志も落合も分かっている。今までなら、落合に興味のある女の子だったら、素直に身を引く久志なのに、その日はいつになく積極的だった。
「美咲さんですね。どうも俺は美咲さんとお会いするのは、今日が初めてではないような気がするんですよ」
 黙って聞いていれば、口説き文句のようにも聞こえるので、久志はそんなベタなセリフを口にする男ではなかったはずなのに、自分でもビックリだった。しかし、それを聞いていた落合は別に驚いている雰囲気ではない。むしろ、久志の言葉に納得しているくらいだった。
 今まで知っている女性だったら、
「あら、いやだわ。どこかでお会いしましたっけ?」
 と、まんざらでもない様子を見せながら、それでいて、相手の様子を伺っているかのような態度に、いい気はしないが、嫌ではなかった。どこかくすぐったい気分にさせられ、わざとらしいにも関わらず、どこか新鮮だったのだ。
 それなのに、美咲はそんな素振りは一切見せない。
「そうなんですね。私はそんな意識はまったくないんですよ」
 つっけんどんな様子に、
――怒らせてしまったか?
 と、少し腰を引いてしまいそうになるところだが、あまりいい気分がしないせいか、なるべく平常心をさらに抑えるような表情をしようと思った。平常心だけでは、わざとらしさがあるので、平常心の中に、気持ちをさらに抑えるようにすれば、相手の態度に渡り合える気がしたからだった。このお店でなければできない態度だったのではないだろうか。
 落合を見ると、その視線は美咲を捉えて離さない。美咲はヘビに睨まれたカエル同然だったが、それを見て、久志はこの状況が三すくみであると実感したのだった。
 今度は落合が口を開いた。
「美咲さんは、記憶の一部が欠落しているという自覚はないですか?」
 あまりにも唐突な質問に、美咲は驚きもせず、ただ下を向いた。
「ええ、その通りですわ」
 どうして分かったのかということを聞こうとはしなかった。普通なら、自分のことを相手に看過されてしまったら、相手がどうして気づいたのか気になって仕方がないはずだ。しかも、相手が初対面ならなおさらのこと、
――ひょっとして、この二人、面識があるのでは?
 と、思い込んだ久志だった。
「実は、俺も昔の記憶で欠落しているところがあると思っているんですよ」
 落合はそう言って、二人のどちらを見るともなくそう呟いた。話の内容からは想像できないようだが、話したというよりも、呟いたと言った方がいいくらい、声のトーンは低かった。
 久志は、今まで落合からそんな話を聞いたことはなかった。いきなりの告白で、しかも相手が自分だけではないということが気になったが、だからこそ、美咲を見て、記憶が欠落しているということを看過できたのかも知れない。
「今の落合さんを見ていると、確かにそうかも知れないと思うのは、私も記憶の一部が欠落しているからかしら?」
「いや、そうじゃないんだ。欠落していることに対して自覚しているかどうかということが重要なんだ」
 落合は、今度はハッキリと美咲を見つめながら話した。しかし、久志を意識もしている。チラチラと、落合の視線を感じたからだ。
「どういうことなんだい?」
 久志は訊ねた。
 記憶が欠落しているだけではダメで、さらにそのことを自覚していなければならないというのは、進んだ考え方のように思えた。それを平然と話ができる落合は、何かを悟っているのかも知れないと久志には思えてならなかった。
「俺は、前から自分の記憶が欠落しているという意識はあったんだ。それも子供の頃の記憶なんだけど、この思いは俺だけではないと思うんだが、中学生の頃の記憶よりも、小学生の頃の記憶の方が近い過去のような気がしないかい?」
 少し的外れな話を落合は始めた。しかし、この話が前兆となって、肝心な話になってくるはずなので、話が繋がってくることを、密かに久志は楽しみにしていた。
 すると、久志が答えるよりも先に、美咲の方が答えた。
「ええ、おっしゃる通り、私にも同じ考えがありました。特に最近は、その思いが強く、記憶の欠落への自覚と同じように、このことも自覚できていたと思います」
「ねっ、このことを自覚している人は結構いると思うんだけど、人には話さないし、話題にすることはないでしょう? 考えられることとしては、このことを当たり前な話なので、いちいち話題にすることはないという思い。そしてもう一つは、考えることはできても、自覚するところまではいかない。つまり、すぐに頭の中で否定してしまうということですね。考えてすぐに否定してしまったことは、よほどのことがない限り、思い出すことはできても、二度と自覚することはできない。結局は堂々巡りを繰り返すということになると思うんですよね」
 落合の話はもっともなことに思えてきた。意識と自覚は違うもので、意識は誰にでもできるが、自覚まではなかなかできないということを言っているようだった。
「今の話の中で、後者はありえることだと思うんだけど、前者を感じる人っているんだろうか?」
「中にはいると思いますよ」
 落合よりも先に美咲が口を開いた。
「美咲さんは前者なんですか?」
「いいえ、私ではありません。同じような考え方ができる人を知っているという意味なんです」
「その人は女性なんですか?」
 今度は落合が聞いた。
「ええ、そうですが?」
「俺は、自覚していることをまわりも当たり前だと感じるような人は、女性に多いと思っているんですよ」
「それはどういうことですか?」
作品名:鏡の中に見えるもの 作家名:森本晃次