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鏡の中に見えるもの

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 落合は、美咲への視線を彼女が気づかないふりをしていることは分かっていた。それも意識的にではなく、無意識にだということを分かっている。それは以前、似たようなことがあったからだ。
 落合の大学時代、知り合った女の子が同じような感じだった。
 彼女は記憶が一部欠落していた。子供の頃の一部の記憶がスッポリと抜け落ちているのだ。
 本人は、最初そのことを負い目のように感じていた。ずっとそのことを気にしながら大学生になるまで友達もできずに、一人孤独な状態が続いていた。
 それは、彼女のことを気にして見つめていても、彼女からの反応がまったくないことで、誰もが気持ち悪がって、近づくことがなかったからだった。
「私はそんなつもりはないのに、どうしてもまわりが分かってくれないの」
 彼女は、何とか分かってもらおうと努力はしたようだが、最初に無視された方の心の傷は思ったよりも深いようで、特に思春期の男の子が異性からそんな仕打ちを受ければ、大きなショックとともに、トラウマも目覚めてしまうだろう。気持ち悪さだけではなく、次第に彼女に対しての嫌悪が芽生えても不思議はなかった。
「私が悪いんだろうけど、私だって、本当は皆と仲良くなりたかったのよ」
 知り合った頃の彼女は、落合の前で愚痴ばかり零していた。
 もし、短気な男だったら、彼女を見放していたかも知れない。しかし、落合は彼女が視線に気づかなくても、ショックを受けることもなかった。すぐに彼女が、こちらの視線に本当に気づいていないと悟ると、自分から声を掛けたのだった。
 どう言って声を掛けたのか、覚えていない。落合としても、緊張しながら声を掛けたからである。いくら、彼女から無視されたことが、彼女の意志ではないと思っていても、声を掛けて、しかとされれば、落合自身、ショックを受けるのは必至だったからだ。そんなリスクを負ってまで声を掛けることを戸惑うのは当たり前だったが、声を掛けた時、自分に勢いがあったのも分かっていた。
――この人でなければ、こんな勢いが生まれることはないだろうな――
 と感じたのだ。
 話を重ねてみて、彼女の記憶が欠落していることに気が付いてきた。彼女は自分の記憶が欠落していることを、なるべくなら悟られたくないと思っていたようだ。それだけに、会話も最初からぎこちなく、すぐに話題が途切れてしまうこともしばしばだった。
 さすがに落合も最初から彼女の記憶が欠落していることに気づくはずもなく、
――どうしてこの人はこんなにビクビクしながら話をするんだろう?
 と思っていた。
 彼女が過去のことを話したがらないと思った時、何となく分かってきたが、会話に違和感はなかったので、本当に記憶がないのかどうか疑問だった。少しずつ会話を絞り込んでいくうちに、次第に落合にも彼女の記憶が中学時代のあたりで曖昧なことに気が付いたのだ。
「私、どうしても、中学の時の記憶が、繋がらないの」
 彼女は、記憶が繋がらないことを気にしていたのだ。その時は記憶が欠落しているという意識は彼女にはなかった。
 もっとも、自分の記憶が欠落していることを一番意識できないのは、本人なのではないだろうか。自分の顔を、鏡のような媒体がなければ確認することができない感覚に似ている。
 落合はそのことを彼女に教えてあげるかどうか迷った。教えてあげるにしても、どのように教えてあげればいいのか分からなかったからだ。
 そのためには、なるべく彼女に覚えていることを話させるのが一番だった。しかし、なかなか彼女は臆病になっていて、口を開いてくれない。あまり強引にしてしまっては、彼女の中にトラウマを植え付けたまま別れるという最悪の結末を迎えるような気がしたからだ。
 何とか話をしてみたが、分かったことは中学時代のある時期の記憶だということだ。欠落した部分にあるのは、底なしの断崖なのか、それとも大きく立ちふさがっている結界のようなものなのか、本人に意識できないのだから、他人にできるはずもない。あくまでも想像でしかなかった。
 彼女の場合は底なしの断崖だった。彼女の目はその時、絶えず下を向いている。決して上を見ようとはしない。上を見るようとすると、下が気になって仕方がないようだったからだ。
 もし結界であれば、足元はまったく気にならないはずだ。絶えず上ばかりを気にしていて、
――どうすれば、飛び越えられる?
 と思うからで、すぐに結界はどうすることもできないことに気が付いた。
 断崖であれば、恐怖に打ち勝って、飛び越えるだけの力があれば、できなくもない。たくさんの段階を踏む必要はあるが、結界のように、見た瞬間、諦めることはないからだった。
 落合は、その時の彼女とは、しばらくしてから別れた。皮肉なことに、彼女の欠落した記憶がよみがえってから、すぐに別れがやってきたのだ。
 どちらから別れを告げたというわけではない。まるで自然消滅のように消えていた。落合からすれば、
――彼女の記憶が戻ったことで、俺の役目も終わったんだ――
 という達成感が、彼女への想いを断ち切らせることになった。
 彼女の方からすれば、
――今まで、私は何を考えていたんだろう?
 記憶が戻ったせいで、それまで育んできた人生の歯車やバランスが崩れた。そういう意味では、落合は開けてはいけない「パンドラの匣」を開けてしまったのだろう。
 もし、落合の中で、役目という意識がなければ、彼女を追いかけただろうか?
 それもなかったような気がする。
 我に返った彼女に対して、それまで張りつめていた気持ち、つまりは緊張の糸がプッツリと切れてしまったのだ。いまさら、彼女を追いかける気など、サラサラないというのが本音だったに違いない。
 その時の彼女の記憶は、落合の中から次第に消えていた。ふとしたことで思い出すこともあるが、思い出そうとして思い出せるものではなかった。そういう意味では、
――彼女と付き合っていた――
 という意識は落合にはない。きっと彼女にもないだろう。親友としてならうまく行くかも知れないが、落合の中に、
――男と女の間に、親友関係は存在しない――
 という思いがあった。
 落合は今までに女性と付き合ったという記憶はない。落合の方から女性に声を掛けることはないからだ。
 久志から見ても落ち着いて見えて、口数が少ない落合は、まわりからは、
「冷めた男」
 として見られたようだ。
 クールという意味での冷めたということではない。何事にも興味を示さない流されるだけの性格に見えていたことだろう。実際に、久志も落合と知り合った時、
――何て暗い男なんだ――
 と感じたほどだ。
 しかし、彼の中に自分と離れられない何かがあるように思えて仕方がなかった。その思いが二人を親友ならしめたのかも知れない。
 学生時代の友達にはいなかったタイプで、お互いに惹かれるものを感じたタイミングも同じだった。感じ方はそれぞれ違っていたのだろうが、惹き合うには、それなりに根拠のある理由がなければいけないように思えたのだ。
作品名:鏡の中に見えるもの 作家名:森本晃次