鏡の中に見えるもの
「あまりいい意味ではありませんが。自分が自覚していることをまわりが当たり前だと思っているということは、自分に自信があるくせに、自信を持つということ自体に自信が持てないという中途半端な考えですね。そんな考えをする人は女性に多いと思うのは、そこに女性ホルモンが関係しているように思えるんですよ。すみません、ハッキリとした根拠はないので、他の人には言えないんですが、美咲さんと久志が相手なら、言える気がするんです」
ここまでの話で、落合は根拠がないと言っていたが、久志には十分な説得力を感じた。それはいつものように自分一人だけで聞いているわけではなく、一緒に聞いてくれている人がいて、さらにはその人が女性であり、しかも、落合の想像しているような女性であるということから、久志が感じたことだった。
「僕は、その女性にも興味がありますね」
と、落合が言って、少し唇が歪んだのを感じた。
そこに淫靡なものを感じると、久志は背筋が冷たくなるのを感じた。
夢に見た女性を思い出したからだ。山岸亜衣と言ったその女性。さっき、落合に話したばかりの女を今一瞬思い出した。
しかも、落合と似たところがあると思っていた。曖昧な意識だったが、今目の前で、淫靡な表情を浮かべた落合の表情を見て、曖昧な意識が何となく繋がった気がしたのだ。
美咲は、また話を始めた。
「実はその女性、私も実際にあったという意識はあるんですが、記憶としては曖昧なんです。意識があるのに記憶にない。そんなに昔のことではない最近のことなのに、我ながらどうしてしまったんだろうって思ってしまいます」
美咲の話は要領を得なかった。
「お友達というわけではないんですか?」
「ええ、友達だったという意識はあるんですが、ごく最近会っていないだけなのに、どんどん記憶から消えていくんですよ」
「記憶から消えていくのは、彼女のことだけなんですか?」
「ええ、そうなんです。私の中ではかなりインパクトの強い女性なので、そんなに簡単に忘れていくわけはないと思っていたんですが、他のことの記憶の欠落は感じないのに、その人だけの記憶が薄れていくのを感じるようになったからなんでしょうね。昔の自分の記憶の一部が欠落しているということに気が付いたんです」
美咲は、そう言って項垂れていた。
「その人の存在があったから、自分の記憶が欠落していることを自覚することができた。ということは、あなたにとってその人は、重要な意識を与えてくれた大切な人だということにもなりますね」
落合はそう言った。そして、落合は続ける。
「実は、僕の考えとしては、記憶の欠落は誰にでもあるものだって思っているんです。忘却の彼方に追いやられたというよりも、記憶の奥に封印されたという意識の方が強いでしょう。確かに、記憶の奥に封印されていることが大多数なんでしょうが、中には記憶が本当に欠落してしまっている部分もある。『木を隠すなら、森の中』という言葉があるでしょう? まさにその通り、まるで保護色のように、当たり前だと思っていることにすべて目を奪われてしまい、肝心なことを考える余地がなくなっているのかも知れませんね」
「それはまた斬新な考えだな」
久志は、少し呆れたような言い方をしたが、実際には、その話を聞いて、またしても、背筋に冷たいものを感じた。話をしていて、本当に怖いと感じたのだ。呆れたような言い方は、怖いと感じた自分を悟られないようにした態度であり、そのことも、落合になら簡単に見抜かれているだろうと久志は思った。
考え方は人それぞれ、十人十色と言われるが、そんな中でも落合は限りなく自分に近い考えを持った相手だと思っていたはずなのに、この時は、今までで一番遠くに感じられたと言っても過言ではないだろう。
「落合さんの考え方、私には共感できます。でも、どうしても理解できないところもあるとは思っているんですよ」
美咲はそう言った。
「それはどういうところだい?」
「私の友達だった、記憶が欠落してしまった人ならきっと共感できるだろうと思うところがあれば、その部分は、私には共感できないって思うんです。今、その人がいないので、それがどの部分なのか分かりませんが」
「ということは、君の考えは、その女性によって決まるということを意味していると考えていいのかい?」
「ええ、一部はそうかも知れません。もちろん、私には私の考えがありますから、私の考えとしては、落合さんに近いところがあると思うんですよ。でも、私の中にもう一人の自分がいるような気がして、それが、友達と今でもダブってしまうんですよ」
「本当は、友達に対しての記憶は完全に消えているかも知れませんね」
「えっ?」
落合の言葉に美咲は、驚愕したようだった。
「一部残っているという記憶は本当は友達のものではなく、自分の中に存在しているもう一人の自分かも知れないということですよ」
という落合の言葉を聞いて、美咲は微笑んだ。
今の美咲が見せた驚きの表情は、驚愕によるものではなく、落合に今の言葉を引き出すための作戦だったのではないかと、久志には思えた。落合もそのことを分かっていて、わざとらしく「どや顔」を示し、大げさに振舞って見せたに違いない。
「意識していることを誰もが当たり前のことだと思っているという意識は、実は子供の頃の自分にあったんです。だから、その友達が同じ考えを今持っていると聞いて、きっと隠れていたもう一人の自分が表に出てきたのかも知れません。覚えていないと思っているのは、相手をしていたのが今の自分ではなく、もう一人の自分だったことで、なぜかホッとした気分になったのを思い出すことができそうです」
美咲は、ここで二人と話をするまで、どこまでの自覚があったのだろうか?
元々、最初二人だけで呑んでいたはずだったのに、いつの間にかやってきていて、いくら話に夢中になっているからと言って、ここまで意識がないというのも不思議な感じがする。
マスターも美咲が入ってきた時に声を掛けた様子もないし、まるで止まってしまった時間の中で、動いていたのが美咲だけ、その間に席に着いて、誰もが不思議に感じないような空間を作り上げたのではないかと思うと、美咲という女性の奥深さがどこまでのものなのか、分からなくなってきた。
それにしても、ここまでの想像力の発展は、誰に分かるというのだろう。いや、想像力ではない。美咲にしても、落合にしても、それは意識の問題に過ぎないのだ。それを想像力という言葉にしてしまうのは、二人に対して失礼に当たる。そんなことは落合と二人で話をしている時に分かっていたはずなのに、今ここでもう一人加わることで再認識する久志だった。
「美咲さんが友達だと思っている人と、お会いしてみたいですね」
落合が口を開いた。
「でも、俺はその人を知っているような気がしているんだけど、ここまで来ると、想像の域を出ないかも知れないな」
久志はそう言った。
知っていると口にしたはいいが、さすがに追及されることに恐れを感じ、つい想像という言葉を口にしてしまった。
「想像、大いに結構。想像から、記憶を掘り下げることに繋がることだってあるんだと思うよ」
と、落合は口にした。