鏡の中に見えるもの
落合はそういった。
「夢の中でかい?」
「いや、実際に現実世界でさ。でも、お前は目の前に現れても、その時の女性だって気づくことができるのかな?」
「俺も分からない。正直、顔はハッキリと見たわけではないし、雰囲気も半分忘れかけているからね。でも、完全に忘れてしまうわけではないとすれば、会った瞬間に思い出すということもあるかも知れないからね」
「それはないとは言えないけど、かなり可能性は薄いと思うよ。分かっているだろう?」
「ああ、もちろん分かっているさ。でも、俺は夢で見た女性が目の前に現れると、分かるような気がするんだ。いつもというわけではなく、今回の夢に関してのことだけなんだけどね」
「よほど印象が深かったようだね」
「だけど、もし現実世界で会ったとすれば、夢に出てきたような雰囲気とはまったく違った雰囲気で現れると思うんだ。だけど、同じ人間であれば、どんなに雰囲気が違っていても、同じところがあるはずなんだ。俺はそれを見逃さないような気がするんだよ」
「かなり自信があるようだね」
「自信というわけではない。ある意味、願望が強いだけなのかも知れない」
「それも自信の一つなんじゃないか?」
「そうかも知れないな」
二人の会話は、そこで少し落ち着いた。その時になって、やっと落合の方が後から店に入ってきた女性に気が付き、気にし始めた。
久志も気が付いたが、直接気が付いたわけではない。彼女の存在に気が付いた落合を見て、そこに女性がいることに気が付いたのだ。
――今日の俺は、落合を通してからでなければ、他の人を感じることができないのかも知れない――
漠然とそんな風に感じた。きっと、夢の中に出てきた女性のイメージが頭の中に残っていて、他人に対して、直接感じることはできなくなっていると思っている。そういう意味では、落合が一緒にいてくれたのは、よかったと思っている。
落合という男性は、相手によって態度を変えるということはないが、久志と一緒にいる時だけは特別だった。これは久志も同じ考えなのだが、二人が共有している空間は、他の人とは共有できない空間だと思っている。
落合は、他人と接する時は、実に社交的だ。そのあたりは久志と違っている。久志は自分に合う人間を最初に選んでしまって、それ以外の人とはいつも距離を置いてしまう。今では自分に合う人間は落合だけなので、落合以外とは、距離があるのだ。そのことは皆分かっていることなので、誰も何も言わない。
その点、落合には相手が誰であっても、距離に変わりはない。それは久志とて例外ではないが、久志との間には二人だけの特別に共有できる空間があるので、そういう意味では他の人と違うのだ。
元々、二人だけの特別な空間を作り出したのは、落合だった。落合という男は、本当に自分と共有できる相手であれば、特別な空間を作ることができる特異な体質だった。だから、世の中で特別な空間を作ることができる。
今までにそんな相手は久志しかいなかった。最近では、
――この空間を作ることのできる相手は、この世で久志だけなのかも知れない――
と思うようになったのも事実である。
高校時代に、自分の特異な体質に気づいた落合は、それから、自分と共有できる空間を作ることのできる相手をずっと探していた。特に高校時代が一番その思いが強く、大学に入った頃には、少しトーンダウンしていた。
――いないならいないで別にいいやーー
という思いもあったくらいで、久志に出会うまでは、普通の大学生活を送るものだと思っていた。
久志と出会った時、最初に何かを感じたのは、久志の方だった。
落合を見つめる久志の目は、他の人とは違い、ビックリした落合が、
「あの、何か」
と、おそるおそる声を掛けたくらいだ。
もし、この時おそるおそるでも声を掛けなければ、そのまま二人はすれ違っていたかも知れない。そういう意味では、衝撃的な出会いだった。
しかし、二人は出会いをそこまで衝撃的なものだとは思っていない。なぜなら、
――出会うべくして出会った相手――
だと思っているからだ。
だから、今でも出会いの話をあまりすることはない。そもそも、二人が過去の話をするということは珍しかったからだ。
だが、大学を卒業してから、就職した時、二人はそれぞれ鬱状態に陥っていた。その内容は、微妙に違っていたが、二人は根底にあるのは同じところだと思っている。
久志が落合を見つめたのはそんな時だった。落合が少しビビッてしまったのも分からなくはない。今から思い出しても、その時の久志の表情は、普通ではなかったように思う。いや、今から思えば、あれが久志の「普通」なのかも知れない。長く付き合ってきた二人であっても、まだ根本で分からないところは存在する。
それを分かっていて、二人は相手の奥深くまで見ようとはしない。
――入り込んではいけない領域――
というのが、人には必ずあるはずだ。
普通なら入り込むことはできないのだろうが、二人の間では入り込むことができる。だからと言って入り込んでしまっては、タブーを犯したことになる。それは、まるでおとぎ話などで、
「開けてはいけません」
という箱や障子を開けてしまったために、悲劇に見舞われるのを同じことなのではないだろうか。
二人はそのあたりはわきまえている。おとぎ話の話も二人の間で交わされたことがあった。お互いに分かっている暗黙の了解だった。
そんな二人が、話を盛り上げて自分たちだけの特殊な空間を作ってしまうと、まわりが見えなくなるのは今に始まったことではない。手前のカウンターに女性が座ったとしても分からなくて当然だった。
しかし、落合だけだけは少し頭をかしげていた。
――この人の存在に気づかなかったなんて――
その思いは、高校時代に最初に感じた自分の特異な体質の相手を探した時、感じていたような相手だったからだ。
いくら、久志と長い付き合いで、誰にも犯すことのできない空間を作っていたとしても、まったく気づかないというのは、落合にとってはショックだった。もちろん、久志にはそんな顔はまったく見せなかったが、久志も何かを感じたのかも知れない。他の人に気さくなはずの落合が、彼女を気にしているにも関わらず、声を掛けないからだ。
それよりも落合は、
――今の話を彼女がどこから聞いていたんだろう?
という思いが強かった。
別に聞かれても問題のない話だったはずなのに、落合はどこかびくびくしている。久志はそんな落合を横目に見ながら、何が落合をそんなにびくびくさせるのか、正直分からなかった。
しかし、落合を見ていて、他人事のように思えないのも事実だった。じっと見ていると久志はハッと感じた。
――これは昨日の夢の中の自分と同じではないか?
という思いである。
夢の中に出てきた淫靡な女性、彼女に対して何もできなかった自分がいたことを思い出した。落合にはそこまでハッキリと何もできなかったことを言ってはいなかったが、お間の落合は、ハッキリと金縛りに遭っているかのようだった。
――ということは、昨日の俺も、夢の中で金縛りに遭っていたということか?