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鏡の中に見えるもの

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 本当は落合に話すつもりはなかったのだが、鏡の話をしたことで、話さずにはいられない心境になった。この話が直接鏡の話に関係しているわけではないというのに、どうした心境なのだろう。
「どんな夢なんだい?」
 落合も興味津々のようだ。
「妄想だと思うんだけど、夢の中に一人の女性が出てきたんだ」
「ほう。覚えているのかい?」
「顔までは覚えていないんだが、とにかく印象深かったんだ」
 落合も久志が夢を見た時、ほとんど忘れてしまっているということは分かっていた。なぜなら、落合も久志と同じように、見た夢を覚えていないことが多い。しかも、覚えている夢は怖い夢だけで、覚えているとしても、漠然として覚えているというだけだった。
「それにしても、お前が自分の見た夢について語ることになるとは思わなかったな」
 確かに夢というものについての話をすることはあっても、見た夢の話をすることは皆無だった。それは、落合が相手だからというわけではなく、誰にも話していない。むしろ、落合に話していないのだから、他の誰にも話すはずがないと言っても過言ではないくらいだ。
「その女というのは、かなりきわどい女性だったんだ」
「きわどいというと?」
「淫靡というか、俺を誘っているのが分かるんだ。身体のラインがそもそもいやらしく、俺の中の男としての欲望を満たしてくれるに十分だった。ただ、態度で誘ってくるわけではないんだ。不思議な感覚だった」
「態度で誘っていないというのは、どういうことなんだ?」
「夢の中に出てきた女は、どうやら俺が見えていないようなんだ。目の前に誰かがいるというのも分かっているのかどうか分からない。それなのに、誘われていると思ってしまった俺はやるせなさと自己嫌悪に陥ってしまったんだ。目の前にいて、手を伸ばせば届くはずなのに、手を伸ばすことを怖がっている自分。そんな自分にやるせなさと自己嫌悪を感じるんだ」
 それを聞いた落合は、しばし腕を組んで考えていた。あっという間だったはずなのに、かなりの時間が経ったような気がした。落合が次に何というか、その返答を怖いと思っていたのだ。
 微動だにしなかった落合が動き始めると、そのスピードはかなり遅かった。まるでスローモーションを見ているようで、さらに苛立ちが募ってくるのを感じた。落合の口に神経を集中させていたはずなのに、全体も見ることができているそんな自分が不思議でならなかった。落合と一緒にいる時は、今までにもこんな時間が何度かあった気がするが、そのたびに新鮮な感じがする。落合と一緒にいて、緊張する時間でもあったが、一番新鮮な時間でもあったのだ。
「俺も実は同じような思いをしたことがあるんだ。お前にも話したことがあると思うんだが、この感覚は感じたことのある人でなければ、どんなに口で説明しても分かってくれるはずはないと思う。だから、お前もその話を聞いたという意識はなかったんだろうな」
 と言われて、久志はハッとした。
――言われてみれば、夢の中で初めてではないような感覚に陥ったような気がしたな――
 と感じた。
 その思いが、本当なら忘れてしまっているはずの夢を、記憶の奥に封印することなく、意識の段階で踏みとどまらせているのかも知れない。
 落合と話をする時は、毎回何かに驚かされたり、目からウロコが落ちるような思いをさせられる。最近、いつも一人でいることが多い久志が、落合とだけは定期的に会っているのは、そのためだった。
――落合も同じなのかも知れないな――
 落合には、自分と同じ匂いを感じる。それは孤独の匂いだった。
――孤独の匂いは、孤独な人間にしか分からない――
 このことを落合と話をしたことはなかったが、話さなくとも暗黙の了解のように分かり合えているものだと確信していた。
「俺もお前もストイックなところがあるから、なかなか女性が近づいてくることはないと思っているんだが、実際はどうなんだい?」
 久志は落合に聞いてみた。久志が自分をストイックだと思い始めたのは最近のことで、二十代前半までは、むしろ女性と仲良くなりたいと思っている方だった。二十代後半から孤独を意識するようになると、女性をあまり気にしなくなり、
――俺も結婚したいとか思う年齢を超えてしまったのかな?
 と思うようになっていた。
 大学を卒業してからは、特に結婚を意識するようになった。大学時代は恋愛までしか意識していなかったのに、社会人になると、恋愛もまともにしたことないくせに、結婚の二文字が頭をもたげてきたのだ。段階を追っての発想ではなく、年齢やまわりの環境からの発想であるため、自分の理想とは程遠い人生を歩んでいることを自覚していた。自己嫌悪に陥ったり、鬱状態に陥ったりもしたが、次第に孤独を意識するようになった。自己嫌悪や鬱状態は到底受け入れられるものではなかったが、孤独だけはすんなりと受け入れることができた。しかも、その孤独が自分の運命のように思えてきたのだ。今から思えば遠い過去である結婚を意識していた時期、かなり変わってしまったかのようにまわりから見れば見えるのかも知れないが、本人はいたって当然の流れに思えている。そしてそのことを分かってくれているのは、落合だけであろう。孤独が好きであっても落合と一緒にいるのは、そういう意識があるからだった。
「やっぱり淫靡な夢を見るというのは、潜在意識の中に自分のいやらしさが潜んでいるからなんだろうか?」
 もちろん、そうに違いない。認めたくないわけではないが、実感が湧かないのだ。実感を湧かすためには人から言われるのが一番いい。その相手は落合しかいないではないか。しかも、自分と同じような夢を見たことがあると落合は言っている。落合は気を遣ってウソをつくようなそんな男ではない。その話は本当のことなのだろう。
 落合も同じ夢を見たことがあるのだとすると、ここで一つの疑問が湧いてくる。
――落合以外の他の人も同じような夢を見たことがある人もいるんじゃないか?
 それが少数派なのか、それとも、口には出さないだけで、他の人も皆同じような夢を見た経験を持っているのか、気になるところだ。
――こんな夢を見るのは俺一人だ――
 普通なら、他の人も同じような恥ずかしいと思えるような、他の人には話せない夢を見たのだと分かれば、きっとホッとすることだろう。
 しかし、久志はホッとすることはなかった。この夢が本当は自分だけのものであってほしいとさえ思ったくらいだ。せめて落合だけであるなら許すこともできるが、他の人も同じなら、ホッとするどころか、却って自己嫌悪や鬱状態に陥ったことだろう。それを思うと久志は、複雑な思いを抱くのだった。
 しかし、久志の見た夢は、他に似たような夢を見たことがある人がいたとしても、きっと異色に違いないだろう。
「いやらしい気持ちは誰にだってある。でも、お前のは少し違うようだな」
 落合は、決して久志が他の人と一緒だということは口にしない。それは久志の気持ちを分かっているからなのか、それとも落合自身も同じ考えで、自分の思いを久志にぶつけているだけなのかも知れないが、それでも久志は嬉しかった。
――やっぱり、落合と友達でよかった――
 と思えるのだ。
作品名:鏡の中に見えるもの 作家名:森本晃次