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鏡の中に見えるもの

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 会社の人から見れば、生理痛ではないかと思ったことだろう。眉間にしわが寄っていたはずなので、下手に話しかけるとイライラをぶつけられそうで、静観しているしかなかったに違いない。それでも仕事は無難にこなしていたので、声を掛けるまでもなかった。気が付けば終業時間が近づいていて、
――あっという間だったわ――
 と感じた。
 生理痛の時は、意外と時間が過ぎてくれずに、座っているだけで苦しいという思いがあったが、その日は終業時間を感じると、それまでの頭痛が次第に引いてくるのを感じた。頭の感覚がマヒしてきたと言えばいいのか、美咲にとってはありがたかった。幸いにしてその時は急を要するような仕事もなかったので、普通に定時に退社することができた。
 普段歩いたことのない道を歩いているのは、自分の意志からであった。頭痛がひいてきたと言っても、まだまだ頭が重たいと感じるのは無理もないことだった。風も適度に吹いていて、気分転換にはちょうどよかった。しかも歩いているうちに頭の重たさも次第に楽になり、やっと頭痛から解放された自分を感じると、軽くなった身体に吹いてくる風の心地よさが感じられた。
 住宅街の路地を横に入ると、そこに一軒のバーを見つけた。
「バー『クイックル』」
 それが店の名前だった。
「こんなところにバーがあるなんて」
 紫色の看板は、怪しさを感じさせたが、その時の美咲には新鮮に感じられた。中に入ってみると、カウンターだけの席に二人の男性が座っていて、何やら激論を交わしているように思えた。
 しかし、会話の内容はさることながら、白熱している会話のわりには、当の二人が落ち着いているのを見て、
――何に白熱を感じたのかしら?
 と思うほどだった。
 美咲は、少し立ちすくんでいたが、二人は美咲に気づかない。美咲にとって結構な時間だったような気がしたが、あっという間のことだったのだろう。二人が同時に振り向いて、一瞬驚きのような表情を見せたが、美咲が後ろにいたのを最初から分かっていたのではないかと思えるほどだった。
 会話をしているうちに、美咲は二人に引き込まれてくるのを感じた。初対面である美咲の秘密を言い当てたりするものだから、美咲にはまるで神様ではないかと思えるほどの二人だったのだ。
 話をしているうちに、
「話は戻るんだが、お前が夢に見たその山岸亜衣という女性なんだが、さっきの話ではお前が想像した淫靡なことをすべて分かっているようだったって言ったっけど、潜在意識の中にあっただけじゃないのか?」
――山岸亜衣?
 美咲にはその名前に聞き覚えがあった。
――いつのことだったのか、私にはその名前に聞き覚えがある。確か、忘れてしまいたいって思った気がするわ。それもかなり前のこと――
 美咲は頭の中の記憶を呼び起こそうとすると、山岸亜衣という女性はすでにこの世にはいないという結論しか出てこない。そして、そのことに自分が関係しているということも意識としてはある。だが、それがどうしてなのかまでは思い出せないでいた。
――私が何か悪いことをしたというの?
 美咲は自分が悪いことをしたという意識しか残っていなかった。そこまで意識しているのなら、その先を知ってもいいはずではないか。自分の想定していること以上の事実がそこに含まれていて、無意識に記憶を封印してしまったのではないだろうか?
 さっき、この二人の男性とも話をしたように、記憶の欠落というのは自分だけではなく、誰にでもあることだということも理解していた。最初こそ、
――自分だけだ――
 と思っていたはずなのに、いつ頃からか、自分以外の人もたくさんの人が記憶の欠落を感じている。そして、そのことを誰にも言えずにいるのだ。
「亜衣という女性は、俺の言いなりだったんだ。俺が命令することは何でもしてくれる。思い出しただけでも身体が反応してしまう。そんなことってお前にはないか?」
 と、久志は落合に聞いた。
「俺にはそんなことはないけど、それは、お前が心に望んだことを相手がしてくれるということなのか? それともお前が口に出して命令していることなのか?」
「俺は口に出しているという意識はない。思っていることを相手が察してくれて、俺を悦ばせてくれるんだ」
「それでは言いなりというのとは少し違うな。たぶん、お前の場合は表から見れば、相手の女に言いなり状態なのはお前の方なんだよ。実際に口に出して命令しているのであれば、相手はお前の言いなりだけどな」
「なるほど、俺はSMの?だというわけか。全然意識していなかった。俺はその時間、ずっとSだと思っていたからな」
「そうなんだよ。男と女の立場なんていうのは、紙一重なんじゃないかな? お前がまったく意識していなかったというだけで、お前はその女の掌の上で踊らされていたと言ってもいいかも知れないな」
 久志は認めたくはなかったが、認めざるおえない自分に苦々しい思いを感じていた。
「だから夢なんじゃないかな? 夢というのは潜在意識が見せるものだという思いが強いと、どうしても都合のいいように見るのが夢だと思ってしまう。でも、考えてみれば、夢の内容を覚えていなかったり、いい夢悪い夢に限らず、ちょうどのところで目が覚めるという思いを何度もしたことがあったけど、それもどこまで都合がいいのか考えさせられてしまうよな」
「お前の夢の中に出てきた亜衣という女性、本当はお前の意識の中に最初からあったんじゃないか?」
 落合がそういうと、
「そうでもないんだ。俺には山岸亜衣という名前にまったく憶えがないんだ。どうして急にその名前が出てきたのか分からない」
 美咲は、亜衣がいつ自分と関わったのかを思い出そうとした。すると、ごく最近も亜衣という名前を思い出さなければいけないという思いに駆られたのを思い出した。その時には、
――亜衣という女性の正体を、今は思い出してはいけない――
 と思い、封印した。
 しかし、ここで再度その名前を思い出させることになるのであれば、それはまた違った意味で、美咲にとって、
「これでもか」
 と言われているようで、これ以上、スルーすることはできないだろう。
 美咲が最近その名前を聞いた時、一瞬ショックを感じた。
――どうして今女性の名前が出てくるの?
 と感じたからだ。
 それは、亜衣という名前というよりも、女性の名前が出てきたことが問題だった。なぜなら、その名前を発したのが黒沢課長で、課長は自分の腕の中に一糸纏わぬ状態の美咲を抱いていたからである。
 快感に酔いしれながら、高まってくる気持ちを抑えようとしたのか、相手の女の名前を口走るということは大いにあることだ。それくらいのことは美咲にも分かっていた。
 それが自分の名前なら、冥利に尽きるというものだが、こともあろうに口走った名前は他の女性の名前だった。
 怒りというよりも、信じられないという思いが強かった。だが、課長の顔を見ると、酔いしれたまま我に返ることはなかった。
――それほど私と亜衣という女は同じなの?
作品名:鏡の中に見えるもの 作家名:森本晃次