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鏡の中に見えるもの

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 という衝動がよぎったのも事実だった。
 課長の話を聞いていると、どうも自分を口説こうとしているように思えてならない。課長の話が信じられないわけではないが、美咲の知っている課長だったら、それくらいのことを言うだけの雰囲気があるからだ。
――口説かれてみるのも悪くない――
 今までの美咲では考えられないような思いだった。
――嫌だわ――
 と、心の中で感じながらも、身体は敏感に反応している。
 そして、今までの自分からは信じられないような態度に出ようとしている自分を感じていた。
 それは客観的に見ている自分だった。他人事のように冷めた目で見ていると言ってもいいだろう。
――上司に抱かれようと思っているなんて――
 美咲は、高校時代に一度だけ、
――この人に抱かれてみたい――
 と感じた相手がいた。
 その人は、別に好きな相手ではなかった。ただ、一緒にいて、話が盛り上がって、怪しい雰囲気になったのは事実だったが、どうして抱かれたいなんて思ったのか、すぐには分からなかった。
 しかし、それは簡単なことだった。
――私の身体が求めたんだわ――
 身体の奥から湧き上がってくる快感は、美咲を濡らした。初めて自分の身体が大人になった気がした美咲は、恥ずかしさから顔が真っ赤になり、動悸の激しさから、呼吸困難に陥り、そのまま相手の男性にもたれかかった。
 彼は優しく抱きしめてくれた。
 その男性には、女性に対して軽いという悪しきウワサが流れていたのは知っていたが、美咲は彼がそんな人だとは思えなかった。自分が信じる相手と話をしていて、自分が相手を求めてしまったことに、ウワサが頭をもたげたが、身体が反応してしまった美咲には、もうそんなことはどうでもいいことだった。
 その時は、それ以上は何もなかったが、美咲はその時の自分を封印することに決めた。
「どうかしていたんだわ」
 もし、あの時、彼に抱かれていれば、そんなことは思わなかっただろう。もっと自分を表に出していたに違いない。そういう意味で、自分が変われるチャンスを棒に振ったとも言えなくはない。ただ、美咲はそれでもいいと思った。
――無理をしても、きっとろくなことにはならないわ――
 と自分に言い聞かせた。
 その時の自分が無理をしていたわけではないと分かっているくせに、自分を正当化させようとしたために、無理をしていると強引に自分に言い聞かせたのだ。
 一度自分にウソをついてしまうと、いくら自分に自信を持とうとしても、最後には思いとどまってしまう。そんな美咲だったが、黒沢課長を目の前にした時、自分が解放されていくのを感じた。
「気持ちいい」
 思わず、そう言ってしまいそうになる自分を抑えていた。
 何が気持ちいいのか分からないが、高校時代に一線を越えられなかった自分を思い出していた。
――もう一度、やり直そうというの? あれから何年経っていると思うの?
 もちろん、自問自答である。
 それに対して自分は答えてくれない。ただ、今の自分の中に、もう一人、自分がいるのを感じたのだ。
――そういえば、あの時も、もう一人の自分を感じたんだっけ――
 高校時代の一線を越えようとしていた時、もう一人の自分を感じていた。しかし、それを認めるということは、自分の行動を正当化しようとする言い訳にしか過ぎないということになるからだ。
 課長は目配せをしてくる。相手は完全に大人の男性。自分は二十代後半の独身OL、
課長は独身なので、別に恋愛をしても問題はないのだが、このままいけば遠距離恋愛になってしまう。
 美咲はそんな打算的な考えが頭をよぎったことを恥じた。かといって、このまま本能に身を任せるというのも、自分の気持ちが許さない。
――誰か、背中を押してくれれば――
 と思った瞬間だった。
「どん」
 後ろから、誰かが美咲の背中を押した。
「誰?」
 思わず後ろを見返したが、そこにいたのは一人の女性だった。その唇は淫靡に歪み、ルージュが真っ赤に濡れていた。
――真っ赤なルージュが光っているのが、こんなに淫靡に感じるなんて――
 そう思って、今度は課長の顔を見ると、さっきまでの課長の顔とは明らかに違っている。その表情は、待っていた人が現れて、安堵な表情を浮かべているように見えたのだ。
「やっと来てくれたね」
 課長の唇が動き、何かを喋ったようなのだが、声にはなっていなかった。
 しかし、美咲にはその唇の動きから、待ち人が来てくれた安堵感を表現したのだということに気が付いていた。
「課長」
 声を掛けたが、課長には聞こえていないようだ。
 そして、その視線は美咲に向けられたものではなかった。さっきまでずっと見つめてくれていた視線が違う人に向けられているのを感じると、美咲は不安に襲われてしまい、震えだしている自分に気がついた。
――一体、どうしたんだろう?
 自分が自分ではないような気がしていたが、今度は課長が口を開いた。そして、さっきと違いハッキリとその声が聞こえてきた。
「大丈夫かい? そんなに震えて、何を怖がっているんだい?」
 美咲の後ろにいる女性も震えているというのだろうか。
 課長が見ているのは違う人だと思った美咲だったが、果たして本当に自分ではないのだろうかという疑問もあった。その場所にいるのは自分と課長だけで他に誰もいないのは明らかだった。課長が美咲を直視せず、そばにいる誰かを見つめていると思っているだけで、そこに本当の信憑性は存在するというのだろうか?
 いつも自分のことを信用しようと心掛けている美咲だったが、普段から本当に自分を信用していたのか、疑問だったように思う。
 自分のことが信じられないから、
「信じよう」
 と思うのであって、そうでなければ、もっと自然に振舞っていてしかるべきなのではないだろうか。美咲は、
「信じるなら、まず自分」
 とそう思っていただけなのではないだろうかと感じていた。
 美咲はその日、黒崎課長に抱かれた。快感は本物だったし、自分から望んでのことだったはずなのに、美咲には大いなる後悔が襲った。自己嫌悪に襲われ、自分にとってその日が何だったのか、まったく理解できないでいた。そのせいで美咲はその日のことを忘れようと必死になっていた。
――忘れることなんかできないはずなのに――
 と思っていたのも事実なのだが、そんな時の方が意外と忘れられるのかも知れない。
 美咲がこの日のことを思い出すには、自分の中に設けたキーワードを設けていた。もちろん、キーワードを設けたことも忘れてしまっていたが、実際には記憶の奥に封印しているだけなので、キーワードが導き出す記憶が美咲にとって何を意味するのか、その時は知る由もなかった。
 美咲は普段歩いたことのない道を歩いていた。その日は仕事にも集中できず、ずっと頭痛がしていた。定期的にズキズキ痛んだが、それ以外の時も、ムズムズするような痛みが頭を刺激していた。
 そんな時、思考はほぼ停止している。仕事をしていても上の空で、気が付けばいつも頭を押さえていたので、無意識にしている時も、絶えず頭を押さえていたのかも知れない。
作品名:鏡の中に見えるもの 作家名:森本晃次