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鏡の中に見えるもの

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「ありがとうございます。私も少し変わったところがあるんですよね」
 と言って笑って課長の顔を見た。
「それはお互い様かも知れないね。でも、人は大なり小なり、人に言えない、いや、自分だけの領域というのを持っているもので、それを個性という一言で片づけられるものなのかどうかは分からないけど、少なくとも、僕も君も同じ感覚であると分かっただけでも、僕には嬉しく思うんだ」
 課長の表情は楽しそうだった。
「でも、私が課長を口説いているなんて、ちょっと想像がつきませんね」
「僕も最初はそう思ったよ。だから夢から覚めて思い出そうとした時に、そこにいたのが君だとは分からなかった。いや、後ろで見ていた君がいたので、そう思ったのかも知れないな。そういう意味では、君が僕を口説いているのではないと感じたいがために、僕は無意識に、後ろで見ている君を創造したのかも知れない。つまり、夢の中で意識することができたということを証明したような気もするんだ」
「それは今思い立ったことですか?」
「そうだね。こうやって話をしながら夢の中の自分の考えを、今の自分が納得させようとしたのかも知れないな」
 課長はそう言って、頭を掻いて見せた。それは、まるでテレが感じられるようで、少し可愛らしく見えたのだった。
 そこあで言った課長は、少し考え込んだ。
「いや、待てよ」
 何か思いついたようだ。さっき納得したのは何だったのだろう?
「どうしたんですか?」
「今君と話をしながら夢を思い出していた時は、今話したことが夢の中での真実だと思っていただけど、どこかが違っているような気もしてきたんだ」
 美咲は課長の顔を見ながら同じように首をかしげてみた。
「さっき、影から見つめている人が君だったって言っただろう? 冷静に思い出してみると、違う人だったようにも思えるんだ」
「じゃあ、目の前にいたのが私だったんだってこと?」
「それも今では少し曖昧なんだ。影から見ていた人も、目の前にいた人も君とは違う人で、しかも、その二人は同じ人だったような気がするんだ」
 夢の記憶というのは曖昧なのだろうが、信憑性のないことを口にするようなことのないはずの課長が、
「君だ」
 と言ったのだから、最初は自分の中でかなりの信憑性があったのかも知れない。
 美咲は、課長の話を聞いているうちに自分のことが分からなくなってきた。
――さっきまで話をしていた課長とは違う人のようだわ――
 と、目の前に見えている課長まで疑ってしまっている自分にハッとした。
 もし、その時我に返らなければ、一体どこまで考えが及んでいたというのか、それもこれも課長がおかしなことを言いだしたからだと美咲は感じていた。
 自分の目で見て触ってみて、これ以上の確かなことはないはずだ。それを認めないとするならば、美咲は自分が信じられないということになる。
 中学、高校時代には、自分のことを信じられないと、ずっと思っていた。もちろん、人のことも信じられない。自分を信じられないのだから、人のことを信じられるはずもないだろう。
 他の友達は、まず他人を信じられなくなり、次第に自分を信用できなくなったと言っていたが、美咲は反対だった。
「人のことはどうでもいいの。私自身が自分を信じられなくなったことで、すべてのことが信用できなくなったの。最終的には同じところに行きついても、私は皆と違うところから入ってきたのよね」
 というと、
「よほど美咲って、自分が可愛いのかも知れないわね」
 そう言われると、他の人なら否定したいところだろう。しかし、美咲は否定するどころか、
「まさしくその通りね。私は自分が本当に可愛いの。自分が信用できないのに、人のことが信用できるはずないと思っているのよ」
 その話を聞いて友達は、
「美咲は大人なのかも知れないわね。私にはそこまで感じることはできない。自分を信用するというのが、実は一番難しいのかも知れないわ。私は自分が信用できないから、今いろいろ苦しんでいるのかも知れないわ」
 中学時代の思春期には、ちょっとしたことでも気持ちが重たくなってしまうことが往々にしてある。壊れやすくなってきているとも言われるが、一番の原因は、
「何を信じていいのか分からない」
 というのが本音だろう。
 しかし、美咲はそれ以上に、
「最終的に自分が信じられなくなることが一番怖いことだ」
 と思っていた。
 誰もが自分が可愛いはずである。しかし、自分を犠牲にしてまでまわりのために尽くすことが美学のように言われているこの世界では、人間の本質を見失ってしまうのではないかと思えてきた。
 確かに一人よがりではまずいこともあるだろう。だが、それと自分を大切にしたり、信じたりできる気持ちとは別物ではないかと思っている。
「自分で納得できないものを人に売ることはできないからね」
 美咲は、就職してからセールスの先輩からそう教えられた。ごく当たり前のことを言っているのだが、その言葉の重みを考えずにスルーしてしまうと、それ以上何も考えられなくなる。いわゆるターニングポイントの一つではないだろうか。
 物事には、考えなければいけない瞬間が存在する。その瞬間を考えることをしなければ、二度とそのことについて考えようとしない。人間とはそんなものではないだろうか。
 美咲はそれが中学時代だった。
 まだまだ考えが煮詰まっていない発展途上の時代なだけに、その時に感じたことの発展形が、本当に自分の進む道として正しいのかは分からない。しかし、その時に感じたというのは、それなりに意味があると思っている。つまりは、
――もし、あの時に感じなければ、それ以降、感じることはできなかったはず――
 他の人も思春期の時期に感じるべきことだったのかも知れない。
 その時に感じずに、そのままスルーした人が、少なくとも二十代後半の今になるまでに自分について考えた時、本当に何が大切なのか、自分のことが信用できるのかという考えから入っているわけではない。どうしても、まわりを意識してしまうことで、
「自分を犠牲にしても」
 という考えが一番だと思ってしまう。
 それを大人の考えだと思っているようだが、思春期に自分のことを考えた美咲から見れば、
――正しいかどうかは分からないけど、少なくとも、自分のことを信用できたとしても、それはまわりのことを気にしているような本当の自分ではない自分を信じているのかも知れないわ。それじゃあ、意味がないじゃない――
 と思うようになっていた。
 本当に自分を信用できて、大切にできる人が、その上で人に気を遣う時、相手に対して自分を隠すことなく接しているので、相手に安心感を与えるのではないだろうか。
 今までの課長は、自分を大切にしている雰囲気よりも相手を思いやる雰囲気を醸し出していることで、部下や部下の女性から人気があった。美咲は、そんな課長にどこか信じられないものを感じていて、いつも一歩下がって課長を見つめていた。
 しかし、その日の課長は、相手を思いやる態度というよりも、自分の気持ちを前面に押し出しているようだった。もちろん、大人としての対応は相変わらずであったが、そんな課長を見ていると、美咲の頭に少し、
――意地悪してみたい――
作品名:鏡の中に見えるもの 作家名:森本晃次