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鏡の中に見えるもの

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 男性は決して謝ることはしなかったが、美咲に対して再度接近する。美咲は一旦安心を取り戻したことだろう。しかし、男性側からすれば、美咲が抱いた不安を解消させるつもりはない。絶えず不安を抱かせることで、美咲に危機感を与え、自分が男性の言いなりになっていることを意識させなくしているのだ。
 男性とすれば、これほど都合のいい女性はいない。それなのに、なぜか美咲はしばらくすると、相手の男性から別れを告げられる。
 美咲にとっては青天の霹靂だったはずだ。どうしていいのか分からない中で、男性側によりを戻すつもりはないことを自覚すると、完全に目を覚ました。自分が男性の言いなりになっていたことも気が付いてくる。
 元々、プライドの高い美咲としては、別れることよりも、
――相手から別れを告げられた――
 という事実に自分で納得がいかないのだ。
 だが、不思議なことに、ほとぼりが冷めてくると、また同じことを繰り返してしまう。
「二度と同じ過ちは犯さない」
 と自分に言い聞かせてきたにも関わらず、最後には、プライドが傷つけられて、終わってしまう恋に、自分が情けなくなる結末を迎えるのだった。
 さすがに、二十代後半にもなれば、自分というものをわきまえてきたのか、同じような過ちは繰り返さないようになった。
 プライドの高さは相変わらずで、その分、男性不信だけは強く頭の中に残っている。
 美咲にとって、自分のことは二の次だった。
――自分を騙そうとする男性に引っかからないこと――
 これが一番だったのだ。
 自分の中に騙されそうなオーラが潜んでいるということを分かっていて、敢えてそのことを考えないようにしている。それこそ、美咲の中にあるプライドの高さがそうさせるのかも知れない。
 黒沢課長に抱かれたいなんてどうしてそんなことを思ったのか、美咲は男性不信だったはずなのに、自分の心境がよく分からなかった。
 黒沢課長が見たという夢は、自分を口説いている女性がいて、そんな二人を美咲が見ていたという。もし、美咲が本当にその場にいたら、どんなリアクションを取るだろう?
――私だったら、プライドが許さないだろうな。でも何とかその場から立ち去ろうとしながら、足が竦んでしまって動けないというのが真実かも知れない。でも足が竦んだというのは恐怖からというよりも、好奇心からと言った方がいいかも知れない。黒沢課長への視線ではなく、見つめているとすれば、その女性に対してかも知れないわ――
 と感じた。
 相手の女性を見つめるというのも、黒沢課長を意識するからである。男性不信の美咲にとって、直接、課長の表情を覗き込むだけの勇気がない。そこで相手の女性の顔を見ることで、課長がどんな表情、そして表情の裏側に秘められた感情すら感じ取ろうとするに違いない。
 きっと黒沢課長のことだから戸惑っているに違いない。
 会社で見る黒沢課長と、今の黒沢課長、まったくの別人に感じられる。
 では、美咲は課長にとって、会社で見る美咲と今の美咲とを同じ人間として見ているのだろうか?
 まずは夢の中で口説いてきた女性を見つめているという美咲の表情だ。
 今の美咲は、課長の夢の中に出てきた自分が、まったくの無表情だったのではないかと思えた。幽霊のように顔色も悪かったように感じる。衣装も白装束を身に着けているのが一番似合っていそうな表情だ。
 美咲は、もし自分がそんな表情をするとすれば、今まで付き合ってきた男性と、ふいに出会った時、まったくの無表情になるだろうと思っていた。それは感情を持たないというわけではなく、今まで見せたことのない自分を、相手に見せつけてやりたいという心境だった。
 それもプライドの高さ所以であろう。
 だが、美咲はプライドの高さというのを勘違いしていた。本当はプライドというのは自分に対して感じるもののはずなのに、相手に対してだけ意識して、自分に対して感じるプライドのことを忘れてしまっていた。これでは本当にプライドが高いとは言えないだろう。元々プライドが高いということが悪いことだとは思っていなかった美咲だったはずだ。それはプライドが自分に向けられるものだと分かっていたからだと思う。何がきっかけになってしまったのか分からないが、今の美咲は、プライドということに対して少なくとも、自分を見失っているということになるのかも知れない。
 黒沢課長は、美咲の考えている横顔を見ながら、何も言わなかった。しかし、美咲が自分のプライドについて考え始めて、少し堂々巡りを繰り返し始めた頃、口を開いた。
「萩原君の横顔を見ていると、昨日の夢に出てきた僕を口説いていた女性の雰囲気に似てきた気がする」
「えっ」
 課長の目が美咲をじっと見つめているうちに、昨日の女性の雰囲気に似てきたということなのか、それとも、課長が美咲の横顔を見ながら、昨日の女性を思い出そうとして、記憶が目の前の表情と重なってしまって、そんな思いになったのか、美咲にも課長本人にも分からなかった。
 しかし、課長はそこまで言うと、一瞬しまったという表情になったが、ほんの一瞬で、そこから先はいつもにも増して、穏やかな表情になった。その表情はまるで父親が娘を見つめるような視線であり、包まれている美咲は悪い気がしなかった。
「どうして、課長は今、そんなことを言うんですか?」
 美咲には、課長の心境よりも、どうしてタイミングが今なのかということの方が気になった。なぜなら、課長の表情を見ていると、考えて言った言葉のように見えなかったからだ。いつもはいろいろなことを考えながら発言している課長が、まるで衝動的に口走るなどというイメージはまったくなかったからだ。美咲にはその衝動性の方が気になったのだった。
「どうしてなんだろう? ひょっとすると、夢の中で自分を見つめていた女性は君で、しかもその後ろから覗いている君もいるということで、夢とは言え、同じ人が二人いたという思いが恐怖を呼んで、その思いを本人である君にも聞いてほしいと思ったからなのかも知れないな。もちろん、恐怖を伝えるのだから、君にとって悪いことをしていると思っているよ」
「そんなことはいいんです。ただ私は私の知っている課長と今の課長が違う人のように感じられて、それで聞いてみたくなったんです」
「君の知っている僕と、今の僕は違う僕ではないよ。でも、君が見て違うというのであれば、それも正解なのかも知れないな」
「どうしてですか?」
「本当の正解というのが存在するのかって思うし、もし正解があるのだとしても、それは一つだとは限らない気もするんだ。だから、君が思っていることも君の中では正解だと思うし、僕がそれを認められないと思えば、僕の中では正解ではない。つまり正解というのは、人それぞれで違っていてもいいんじゃないかな? むしろ同じだという方が、不自然な気がするくらいだ」
 課長の話を聞いていると、少し思考のリズムが狂ってきそうな気がしてきた。ただ、それは美咲が今までに思ったことがあるもので、忘れていたのか、それとも記憶の奥に封印していたのか、思い出してみると、
――まるで昨日考えていたことのようだ――
 と感じるのだった。
作品名:鏡の中に見えるもの 作家名:森本晃次