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鏡の中に見えるもの

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 体内のすべての血液が一か所に集まってくるような感覚。身体の奥が焼けるように熱くなっているにも関わらず、その部分は暖かさに包まれた心地よさがあった。
 血が集まってくる部分が脈打っている。
――脈打っている部分がこんなにも気持ちいいなんて――
 止めどもなく溢れてくる快感に身体中が水分になり、クラゲのように身体が透けて見えるような気がした。全裸どころではない。身体のすべてが透けて見えるのだ。一体どんな感覚になるというのだろう。
 こんなに熱くなっている自分の中に、さらに熱いものが侵入してくることを、美咲は想像していた。
「早く来て」
 淫らな肢体を隠そうともせず、あらわにする。
――これが本当の私なんだ――
 美咲はそんなことを意識しながら、漏れてくる声を抑えることができなくなった。
 今度は熱い腕は侵入してくる。抑えることができない声を、黒沢課長は唇で塞いできた。侵入してきた指や局部が灼熱のような熱さであったにも関わらず、唇は冷たかった。その分、濡れ方が半端ではなく、吸い付かれた唇から、身体全体が飲み込まれてしまいそうな感じになってきた。
――こんなの初めてだわ――
 美咲は、これが前から自分が求めていたものなのかどうか分からなかったが、少なくとも今までにはない快感に襲われていることを自覚していた。
――これが大人のオトコなのかしら?
 そう思うと、美咲は快感に身を委ねながら、頭の中に考えるだけの余裕が戻ってきたことを感じた。それは、自分に余裕ができてきたわけではなく、今まで考えることのできなかった領域に入り込んだからだと思えてきた。それを思い知らせてくれたのもこの快感である。やはり、大人というのはすごいものだと感じさせられていた。
 これを妄想と言わずして何と言えばいいのだろう。確かに妄想を抱くことで快感を得てきた美咲だったが、それはいつも一人でいる時のことだった。表でまわりの目を気にしながら妄想に耽ってしまうなど、考えられないことだった。
 まわりの目をあまり気にするタイプではない美咲だったが、それでも羞恥心がある限りはまわりの目を意識しないわけにはいかない。
――意識しないつもりで一番意識していたのは自分だったのかも知れない――
 という思いに駆られた。
 今まで感じたことのない「大人のオトコ」の視線を浴びることで、妄想の中だけで抑えていた淫靡な自分が顔を出したようだった。
――黒沢課長に抱かれたい――
 いつもであれば、こんな発想をした自分の気持ちを打ち消そうとするはずなのに、この日は打ち消すどころか、自分の正当性を探している。
――たくさんの女性を相手にしてきた女性慣れしている男性――
 そんな男性を毛嫌いしてきたはずなのに、敢えて意識してしまうと、今度は、
――自分は今まで課長が相手をしてきた他の女性たちとは違うんだ――
 と思うことで、自分を正当化させようとする。
 考えてみれば、他の女性も同じような「手口」で、課長の罠に堕ちたのかも知れない。だが、その時の美咲はそれを分かっていながら、さらにまわりへの敵対心を強めることで、自分を鼓舞しようと思っていた。これほどまわりを意識したことが今までの美咲にあっただろうか?
「他人は他人」
 そう思うことが、自分にとっての人付き合いの最良の方法だった。それだけに、敵対心を抱くことは自分にとって罪悪であり、必要のないことだった。それなのに、どうして敵対心を抱いてまで課長を意識してしまうのか、言葉で説明のつくことではない。
 今までの美咲には、言葉で表現できることが自分にとっての「正義」だったはずだ。言葉で表現できないことは夢であり幻であるかも知れない。寝ていて見る夢とは違う夢は、まさしく自分にとってありえない夢だったはずである。
「将来の夢」
 などという目標を、「夢」という言葉で表すことは、美咲は嫌いだった。高校時代まではまわりの皆と同じように、将来の目標を夢という言葉で表していたが、急にいうのをやめた。理由は一口に言って、
「紛らわしいから」
 ということだった。
 夢というのは、眠っている時に見る漠然としたもので、潜在意識が見せるものである。しかし、現実世界で目標にしていることを、曖昧な言葉で表現することに美咲は嫌悪を感じた。
 他の人はどうでも、自分では許せないと思ったのだ。
 美咲が快感に身を委ねていることに、黒沢課長は気づき始めていた。
「僕は昨日夢を見たんだよ」
「えっ」
 美咲は唐突にそう言われて、どう反応していいか分からなかった。
 いや、唐突という言葉は性格ではない。予期していた言葉だったように思う。反応できなかったのは、あまりにも自分の考えていたことと同じことだったため、相手が口にした言葉というよりも、自分が本当に課長から、そう言われることを想像していたことにビックリしたのだ。確かに予知する力があるのではないかと最近感じ始めている美咲ではあったが、ズバリ的中してしまうと、まず自分を恐ろしく感じるのだった。
 美咲にとって、人との接し方は、相手によって態度を変えられるほどっ器用な方ではないと思っていた。それは、自分にはできないと思うことを、できないのは、しようとしていることが、自分にとっての義ではないと思うことだった。冷静に考えれば逃げから来ているのではないかと思えるのだが、相手を目の前にすると、他の人と違う自分を見せることは演じることであり、失礼なことに当たると考えていたのだ。
「どんな夢だったんですか?」
 と美咲が訊ねると、
「そこには一人の女性が出てきて、この僕を口説くんだよ。僕はあまり口説かれることには慣れていないので、少しビックリしたけどね」
 そう言って笑った。
 課長が本当のことを言っているのか、それともこれからの話の展開における「前置き」のつもりなのか定かではないが、ここで一旦話を区切ったということは、美咲には課長がまんざらウソを言っているのではないと思った。
 ただ、それが本音からなのか、無意識の思いからなのか分からない。分からないだけに、もう少し話を聞いてみないと分からないと思った。しかし、今の段階で身体が反応しているのは事実だ。何度も話を区切られると、それは焦らされているのと同じ感覚になり、果たして自分が耐えられるかどうか気がかりだった。
 課長は続ける。
「口説くと言っても、身を委ねるという素振りでもないし、性的な興奮をもたらすものではなかった。知らない人が見れば、恋人同士がいちゃついているのではないかと思うかも知れない。それだけ自然であったんだけど、僕は心の中では身構えていたんだよ」
 何となく分かる気がした。
 美咲は人を口説いたことも口説かれたこともない。そんな大それたことは、自分以外のどこかで起こっていることであり、それこそ他人事だった。それなのに何となく分かるというのは、欠落した記憶の中に存在しているものなのか、それとも一度夢に見たことだったが、目が覚めるにしたがって忘れてしまったと思っている記憶の奥に封印されてしまった意識なのだろうか。
作品名:鏡の中に見えるもの 作家名:森本晃次