鏡の中に見えるもの
久志や落合と一緒に話をしていると、頭をよぎった恥ずかしい夢を思い出せそうな気がしたのだ。今まで男性と話をすることがほとんどなかった美咲にとって、落合や久志は自分が知っている男性とは違っていた。
――男性というのは、もっとギラギラしていて、女性を舐めるような視線で見つめるものだ――
という思い込みがあった。
実際に、会社で自分を見つめる男性社員の目にはギラギラしたものが感じられた。それは年齢に関係なく、上司であっても同じだった。
――奥さんがいるのに――
と、直属の上司である課長の視線が最近は一番気になっていた。
課長は、三十代後半で去年結婚したらしく、まだまだ新婚だった。美咲は昨年まで違う部署にいたので、今の課長のことを去年より前のことを知らなかった。ただ、課長が女性社員から人気があり、結婚が決まった時には、かなりの女性社員がショックを受けたという話を聞いた。
元々、社内恋愛はしたくないと思っていた美咲には興味のないことで、ショックを受けた女の子に対し、
――どれだけ狭い了見なのかしら?
と感じたほどだった。
美咲は入社して五年目である。短大を卒業してからの入社で、部署をいくつか経験していることもあり、会社では他の女性社員から一目置かれていた。
しかし、それだけに女性社員の間では浮いた存在でもあった。部署をいくつも経験させられるのは、それだけ会社からの期待が大きいということであり、そのことを男性社員は分かっているので、彼女は男性社員からも一目置かれている。そういう意味では、男性社員と女性社員の間に入ることも多く、仕事内容よりも、そちらの方が上司からの期待が大きかったのかも知れない。
そのため、会社ではどうしても孤独になってしまう。浮いた存在というオーラが表に出ているのを、他の社員も分かっている。女性社員よりも男性社員の方が敏感に感じていたようだが、相手が異性だと思うと、腫れ物に触るようなぎこちない態度が付きまとった。
そんな雰囲気は美咲には苦痛だった。人から気を遣われることのやりづらさは、高校時代からあった。学校では真面目な女子学生を演じていた。実際に真面目なところがあったのは事実だった。それだけに、融通が利かない性格で、真面目な態度を最初に演じてしまえば、他の態度を示すことができなくなっていた。先生からも期待されるようになり、学校の生徒会にも推挙されると、あれよあれよという間に、やらされる羽目に陥ってしまった。
それでも、美咲には逆らえなかった。人に逆らうということが分からなかったのだ。抗ってみても、どうにもならないという意識もあった。美咲にはその頃、他人の視線を意識するという気持ちはなかった。そのため、言い知れぬプレッシャーが襲ってきていて押しつぶされそうだったが、それがどこから来るのか分からなかった。
どうしても、まわりへ視線を向けるよりも、内に籠ってしまうからだ。
普通、内に籠る人は、他人からの視線に耐えられなかったり、自分を表に出そうとすると、打ち付けてくる杭の存在に気づいて、表に出られなくなるものだ。しかし、美咲の場合は視線を決して表に向けようとしない。そのため、まわりからの意見は受け入れるようにしていた。
よほど生理的に無理なこと以外は、無条件に受け入れてきた。生徒会へ推挙されることくらいは、別に問題ではなかった。生徒会と言っても、目の前にあることをこなせばいいだけだ。当たり前のことを当たり前にやっていれば、こなすことができ、しかも、それなりに褒められる。褒められて嬉しいという感情もさほどなかった。苦笑いを浮かべるだけだった。そんな美咲を見て、美咲を生徒会に推挙した先生は、
「やはり、あいつにやらせて正解だったな」
と言っていたようだ。
感情を表に出すことなく、ただ当たり前にこなしている態度は、先生からすれば、大役をこなすには適任だったように見えたのだろう。
確かに、他の人にやらせるよりはよかったのかも知れない。下手に感情を表に出しすぎる人は、イヤイヤやるだろうし、中にはストレスばかり溜まって、まともに生徒会の仕事をこなせないかも知れない。美咲にはそんなことはなかった。静かに冷静な態度や判断は誰よりも適任だったことを裏付けている。美咲の内に籠る性格を生かすことを覚えた瞬間だった。
就職してもその感覚は変わらなかった。静かに冷静に仕事をこなしていく。生徒会に推挙した先生よりも、会社の上司は冷静に美咲のことを見ていた。そういう意味では人事部長の見る目に間違いはなかったのだろう。
美咲は最初に配属になった部署の課長の視線に、ギラギラしたものを感じた。それまでは、学校の先生にも、同学年の男の子からも、一緒に入社した男性社員からも感じることのなかった視線だった。
年上の男性という意味では学校の先生もそうだったのだが、学校の先生と、会社の課長のどこに違いがあるのかということばかりを考えていた美咲には、ギラギラした視線の訳を理解できなかった。
しかし、自分が成長していることが男性の視線の違いであることに、美咲は気づかなかった。普段から内に籠る性格のくせに、自分のことが分からなかったのだ。内に籠るといっても、それは自分を見つめるということではなかった。本人は見つめているつもりだったのだが、自分の本質を見ることができない。自分の顔を見ようとすると、鏡のような媒体を通してでなければ見ることができないという基本的なことが分かっていなかったのだ。
いや、分かっていたのかも知れないが、そのことと、自分の本質を見るということが結びついてくることに気づかなかったのだ。個々については理解できても、それを結びつけることができない。それが内に籠る美咲の性格を表しているのかも知れない。
それがいいことなのか悪いことなのか分からないが、美咲にとって遅かれ早かれ転機が訪れるような気がしていたのだ。
いつやってくるか分からない転機を意識し始めると、毎日の仕事がマンネリ化していることに気が付いた。それでも、今自分にできることの最善を尽くしているつもりでいたので、別に今の考えを変える気はしなかった。
そんな時に、課長のギラギラした視線を感じたのだ。
美咲がその時初めて、自分が表に向かって感情を表したことに気づいていなかった。それまでの美咲は内に籠っていたために、まわりの人たちも美咲のことを必要以上に意識はしていない。ゼロに限りなく近いと言ってもいいだろう。
道に石が落ちていても、誰も気になどしない。
――あって当たり前――
そんな意識すらないのだ。
だが、課長はそんな美咲に初めて気づいた人ではなかっただろうか。道端に落ちている石の中から、一つだけ光っている石を見つけた感覚、それが課長のギラギラした視線、いわゆる「オトコの視線」である。