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鏡の中に見えるもの

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 一度身に付いたものは、なかなか抜けるものではない。特に楽をすることが悪いことではないという意識がいつからか芽生えてくることになろうなど、子供の頃に考えたこともなかったからだ。
 気が付いたら、
「楽をして手に入れても、それは本当の力ではない」
 という言葉が矛盾していたのだ。
 それ以上に、楽をすることに対して別の考えが植え付けられるようになっていたからなのだが、それに気が付いたのが、受験勉強をしている時だった。
 元々、勉強すること自体は嫌いではなかった。小学生の頃はテストも好きで、成績が上がることが楽しみだった。テストの点が上がること、全体的な順位が上がること、どちらも嬉しかった。本当は人との競争など嫌いだったはずなのに、テストに関しては、人より上に行くことが無類の喜びとなっていた。
 小学生の頃は、テストの結果を楽しみに、勉強することも楽しかった。自分の実力を一番鮮明に表しているのがテストである。
 テストはウソをつかない。おだても言わない。出てきた結果がすべてなのだ。これほどハッキリしていて、やりがいのあることはない。小学生の高学年の頃の久志は、勉強が三度の飯よりも好きになっていた。
 そんな久志をまわりの子供は冷めた目で見ていたことだろう。きっと、
「わざとらしく勉強ばかりして、そんなに大人に褒めてもらいたいのか?」
 と思っている連中、さらには、
「順位の低い連中を目下しているような目が気に入らない」
 と陰口を叩かれていたが、それでもよかった。
「大人に褒められて何が悪い。結果がすべてだ。そして、同じように勉強する機会が与えられていて、同じように平等にテストを受けているんだから、順位が低い連中を見下して何が悪いというんだ」
 と言いたかった。
 理屈は、至極もっともである。力説すれば、相手の言い分は言い訳にしかならないだろう。
 しかし久志はそんな言い合いをする気はなかった。低俗ななじり合いでしかないではないか。それを思うと、勘定をなるべく表に出さないようにして、クールに振舞うことが一番いいと思うようになっていた。
――これが子供の頃に考えていた自分の信念の発展形なのだろうか?
 久志は、自問自答を繰り返したが、答えは出てこない。
 確かにまわりに、自分が考えていることを悟られないようにしてきたので、久志が何を考えているか、まわりの人に分かる人はいないだろう。それが自分の望んだことでもあったはずなのに、どこか物足りなさを感じた。
 次第に自分の考えが、内に籠ってきていることに気が付いた。その最初は、矛盾からだった。
――楽をする――
 ということに対しての矛盾。受験勉強から感じたものだった。
 高校受験の時に、鮮明に感じた。予備校に通うようになって一番感じたのだ。
 予備校では、いかに労力を掛けずに暗記したり、簡単に回答を出せる公式を教えてくれたりした。
「たくさんのことをしなければいけないので、いかに効率よく勉強できるかが、合格の秘訣なんだ」
 というのが先生の理屈だった。
 確かに、その言葉に重みは感じられたし、当然のことを話しているのだろうと思った。もちろん、間違ったことを言っているわけではないし、至極当然のことである。
 しかし、それは生徒全員に共通した意見であり、個別に対応しての意見ではない。マンツーマンではないので、個別な対応まではできないのだろうが、楽をすることをせずに、地道にゴールを目指すという考えを子供の頃に叩きこまれた久志には、矛盾でしかなかった。
 元々の考えを叩きこんだのは、大人だった。今度は同じ大人が、少しでも楽をすることを奨励している。これを矛盾と言わずして何というのだ?
 大人になってみれば、
「世の中、矛盾だらけだ」
 ということが分かってくる。
 それは自分が経験したことから学ぶことなのだが、中学生の子供に、そんな理屈が分かるはずはない。
 いや、最初に感じる矛盾が、これからどんどん感じることになる矛盾の第一歩だと思えば、一つの試練として受け入れられるのだろうが、初めて感じた子供に分かるはずなどないだろう。
 ちょうど、その頃というのは、いわゆる思春期でもある。精神的にも転換期になっているのだろうが、肉体的にも大きな転換期である。思春期というのは、精神的にも肉体的にも、
――大人になる――
 という一つの段階なのだろうが、思春期以外にも大人になるための段階があるとすればそれがいつだったのか、久志は思いを抱くこともあった。
 本人の意識としては、そんな段階が存在したという記憶はないのだ。
――これが欠落している記憶なんだろうか?
 もし、そうだとすれば、それは実に肝心なところが欠落しているように思う。しかし、実際には本当に肝心なところなのだろうか? 自分の記憶の欠落している部分は一か所ではないと感じるようになったのも、その疑問があったからだ。
 落合と知り合ったことも、その疑問を確信に変えた。
「人は誰でも、一生のうちに記憶を欠落させる瞬間を、何度か持っているものなんだ」
 という思いがあったからだ。
 だが、その思いを抱いたのと同時に、自分の記憶が欠落しているということを感じるようになったのが本当はいつだったのか、ハッキリとしない。中学時代だったような気もするし、中学時代に感じたというのは錯覚で、本当は大人になってからだと思うこともあった。その理由は、
――すべてが後になって考えるからだ――
 という考えに基づいているのだった。
 久志は、
――自分に思い込みが結構ある――
 と思うようになってから、落合と知り合い、落合が、思い込みよりも、思い付きで行動するタイプだと分かると、
――ある程度、自分とは正反対の考えを持った人なんだ――
 と思うようになった。
 そう感じるようになってから、考えれば考えるほど、落合と自分とは正反対であるという思いが確信に変わってくる。落合もきっと同じことを思っているに違いないと感じているが、別に考えがすれ違ってるわけではない。
――うまく歯車が噛み合っている状態――
 お互いに、そう思っているに違いないと、久志は感じていた。
 だが最近は、
――思い込みと、思い付きというのは、正反対のものなのだろうか?
 という疑問を感じるようになった。
 思い込みの激しい人は、思い付きで行動することがないように思う。自分の信念を持っていて、それにともなって行動しているのだから、そこに思い付きが入り込む余地はないだろう。
 逆に思い付きで行動する人は、猪突猛進に見えるが、元々自分の中に確固たる信念が存在しているのか疑問である。思い付きで行動する人には迷いはない。迷ってしまい、少しでも後ろを振り向くと、前を向くことが怖くなるからだ。
 思い込みと思い付きの関係を、長所と短所の考え方になぞらえればどうであろうか?
 長所と短所は、誰にでもあり、一人の人間の中で、一緒に表に出てくることはないことから、あいまみえることはないように思うが、よく言われることとして、
「長所と短所は紙一重」
 であったり、
「長所と短所は背中合わせ」
 だと言われるものだ。
作品名:鏡の中に見えるもの 作家名:森本晃次