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鏡の中に見えるもの

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 人の話にあまり耳を傾けることをしない落合は、自分の考えや信念に他の人の考えの影響が及ぶのを恐れていた。人から振り回される人生は、自分で迷って、人に相談したり、それでさらに間違った選択をしてしまうことで後悔することを一番怖かったのだ。
 落合は、なるべく人から影響を受けたくないという思いから、友達は極端に少なかった。人から影響を受けたくないというだけの理由では、久志も同じであり、落合と久志の間に立ちふさがっている結界の正体は、このあたりにあるのかも知れない。
 落合はそのことを意識していた。久志も同じように結界の存在を意識しているようだが、久志が感じている結界とは、正体が違っているのではないかと思っている。
 落合は、
「気が付いたら死んでいた」
 という思いを、
――まるでパラドックスのようだ――
 と思っている。
 逆説として、
「逆も真なり」
 という言葉があるように、あいまみれないものも考え方によっては辻褄として考えないのであれば、理解できないこともないという考え方である。
 落合は、
――パラドックスと呼ばれるものは、どこにでも存在している――
 と思っている。
 それはまるで、鏡の向こうに世界があるかのような考えで、鏡を通して見えるものは、鏡の広さを限界としているものだけである。しかし、その向こうに別の世界が広がっているとすれば、見えない死角になった部分が存在し、むしろ死角の方が広いくらいである。向こうの世界に蠢いているもの。誰も想像できるはずのないものである。想像すること自体、暗黙の了解でタブーとされている。それを話すことは、「パンドラの匣」を開けることであり、昔話の、
「開けてはいけません」
 というくだりは、まさにその戒めに違いないのだろう。
「気が付いたら死んでいた」
 というのも、
「気が付いた時は、すでに死の世界にいることになる。死んでしまったということを誰に話すというのだろう。死の世界の人は皆それを超えてきている人だ。その人に話しても、『いまさら何を』と言われるだけだ」
 という理屈になるのではないだろうか。
 つまり、死んでいたということを大げさに問題にできないということである。
 もし、死んでいたということを気が付いたとすれば、それは本当は死ぬ前の瞬間で、まさに自分の魂が死の世界に入り込んでしまったその時のことをいうのだろう。
 だから、本当は死んでいたということは嘘であり、
「死を迎えようとしている」
 というのが、本当の理屈であろう。
 ただ、死というのは、本当に一瞬のことで、どこからが死というものなのかということを考えると、
――もう、どんなに再生しようとしても、不可能な段階に行った時ではないか?
 と思えるが、しかし、本当にそうだろうか?
 再生しようとする力はその人の力によるものだが、まわりから、助けようとする努力がある。その努力は、再生を受ける人それぞれでも違ってくるし、または治療する方からしても、違ってくる。その時々の状況に応じて、いくつもの選択肢があったりもする。再生が不可能になるかどうかは、個人差でいろいろなパターンがあるだろう。
 それぞれのパターンを考えると、死を目前にして、本当に死んでしまうまでの差は歴然としている。本人の意識が混沌としてしまうと、そこから先がどこの世界にその人がいるのか、疑問でもあった。
「混沌としている時間も、本当は死んでいるのかも知れない」
 どんなに治療を施しても治る見込みのない状態だけが、本当に死をまたいだと言えるのかというのは、大きな問題である。
 意識が朦朧としている時は、まだこっちの世界に帰ってくることができる状態なのかも知れない。しかし、朦朧が混沌に変わり、こちらからどんなに刺激しても、反応が返ってこない場合は、肉体が抜け殻になっている可能性が高いのではないだろうか。
 そもそも、人は死ぬと、魂だけの存在になり、肉体と切り離されるという考え方は、この発想から来ているのかも知れないと、落合は思っていた。
 生きている時は魂と肉体の意識など普段からしている人はそんなにいないだろう。しかし、死が近づいてくると、いやが上にもその意識が高まってくるのではないかと思う。
 そのことを意識させるために、誰かが死の世界から使わされたと考えるのは考えすぎだろうか。古来より、さらには全世界的にも、死神という考え方は人の気持ちの根底にあり、死を迎えるということは、その死神を自分が引き寄せてしまうからだと思っている人も少なくはない。
 本当は誰もがそんなことは思いたくはないだろう。死をまったく意識していない人にとって、死神という考え方はまったくとは縁遠いことであり、考えるまでもないと思っているに違いない。
 しかし、死神を意識し始めると、死神はその気配を感じ取って、その人に近づいてくる。
 子供の頃のホラー漫画で、死神というものにはノルマがあって、一か月に何人の魂を迎え入れなければいけないかが決まっているという話があった。そのため、死人が少なかった地域を受け持った死神が、ノルマ達成のために、人を殺すという話である。ありえない話に思えるが、他の「ありえない話」に比べれば、信憑性は高いのではないだろうか。
 だが、落合は死神に対して独自の考え方を持っていた。
 それは、
「死神というのは、一人に対して一人だけいるものだ」
 という考えである。
 守護霊などは、その人の先祖が複数存在してもいいことだが、死神は違っている。そう思うと今度は、守護霊というものに対して辻褄が合わない発想に行き着いてしまった。辻褄が合わないというよりも、
――考えれば考えるほど深みに嵌り、底なし沼の様相を呈してくる――
 と思えることだった。
 というのも、守護霊というのは、その人のご先祖様が、この世に戻って自分を守ってくれているという発想である。
 つまりはご先祖様にとって時間は立体的なものだと言えるのではないだろうか。
 現在生きている人は、今がその瞬間であり、あくまでも時間を立体的に見ることはできない。ご先祖様は死んでいるのに、子孫のために現れるというのであれば、かなり昔のご先祖様にとって、それ以降の子孫は、時間を超越して、すべて守るべき相手だということになる。
 しかし、一体誰を守ればいいというのだろう。
 ご先祖様が選べるのか、それとも、誰かの指示によっていつの時代の誰を守るかが決まっているということなのだろうか? 今の瞬間を生きている本人には、想像もできない発想に違いない。考えたこともないことが想像を逸脱しているとは一概には言えないだろうが、この場合は言い切れるように思えた。
「気が付いたら死んでいた」
 という発想からも言えることだが、やはり現実の世界からだけでは理解できない世界が、過去からずっと結びついていて、今現在という発想ではない世界が広がっているということを示唆していた。
 落合は、記憶の欠落と、死の世界との発想を、どうしても切り離して考えることができなかった。
――見つかるはずのない答えを探し求めているようなものだ――
作品名:鏡の中に見えるもの 作家名:森本晃次