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鏡の中に見えるもの

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 さっきまでの落合とは違い、少し声のトーンが高く感じられた。きっとさっきまでと違った感情が含まれているのだろう。そこにはさっきまでとの温度差が感じられ、感覚の違いがこの温度差にあるのだと思うようになった。
 久志が美咲の友達を知っていると言った言葉、半分は間違っていなかった。久志はそれを山岸亜衣だと思っている。そういう意味では間違ってはいないのだが、
「知っている」
 と口にできるほど、記憶は定かではないことで、
「半分間違っていなかった」
 と言えるのではないだろうか。
 それにしても、夢の中での山岸亜衣は、いかにも夢でしか会うことのできないような女性だった。もし、現実にそんな女性がいるのだとすると、それは久志が出会うことなどない、まったく違った世界に生きている人ではないかと思えるのだった。
 もし、見かけることがあったとしても、決して目を合わせることはない。目が合ったとしても、どちらからともなく目を逸らすに違いない。そして目を逸らすとすれば、十中八九相手からではないかと思っていた。
 だが、夢の中で出会ったのが美咲だったらどうだろう?
 美咲の方から目線を切るなどということは信じられない。そんなことのできる女性ではないというイメージと、彼女は、一度捉えた視線の相手から、納得できるまで目線を逸らすことはないように思えたからだ。ただ、何を持って捉えたというのかは分からない。それこそ、久志の独りよがりな発想でしかないのかも知れない。
 亜衣のことを久志は思い出していた。思い出せば思い出すほど、淫靡なイメージしか湧いてこない。しかし、淫靡ではありながら、神聖さは醸し出されている。
「まるで、『天女の羽衣』だ」
 と言わんばかりのイメージが頭をよぎる。
 見えそうで見えないエロさが醸し出されているにも関わらず、そこには触れてはいけない神聖さが背中合わせになっている。
 神聖さが表に出ているのが、天女の羽衣なら、淫靡さが表に出ているのが亜衣である。つまりは、亜衣に対しての久志の思いは、裏側にある神聖さを認めていながら、表に出ている淫靡さに心を奪われてしまっているということだ。完全に、愛の術中に嵌っていると言ってもいいだろう。
 亜衣のことを思い出せば思い出すほど、顔はハッキリとはしてこないのだが、シルエットに浮かんだ姿は、天女の羽衣か、あるいは、古代ギリシャの女神かを思わせた。そういえば、ギリシャ神話にもローマ神話にも、エロスの神様は美しいイメージとして頭の中に残っている。
 美咲は二人と話をしながら、最初に二人の話に耳を傾けた時のことを、思い出していた。
美咲は二人が話をしているのは、自分の話だということにすぐに気が付いた。ただ、美咲には耳を傾ける前の記憶がなかった。記憶がなかったというよりも、
――確か、私は寝ていたはずでは?
 と思っていたからだ。
 寝ていた場所も今から思い出そうとすると思い出せない。どこかで寝ていたという意識があるだけで、それが夜中に自分の部屋のベッドで寝ていたのか、それともどこかで打とうとしていたのかということも思い出せない。
 美咲は、時々気が付けばどこかでうとうとしていることに気づくことがあった。眠りに就いた時の前後の意識がほとんどない状態で目が覚めたことを表していたが、眠りに就いたという意識すらないこともあった。
――気が付けば死んでいた――
 という事実を、死んでから、死の世界で自覚したような状態である。きっと、死の瞬間の意識は、その瞬間はあったとしても、死の世界では意識できるものではない。ひょっとすると何かを意識する時、一番短い瞬間というのは、死の瞬間なのかも知れない。
 死というのは突然やってくる。交通事故などで、突然訪れる死もそうなのだが、死を宣告された患者としても、死を意識はしていても、死の瞬間を想像することはできない。死は怖いものであって、怖いものはそう簡単に想像できるものではないのだ。
 したがって、死を覚悟している人も、本当の死は突然やってくるものだと思っていたに違いない。同じ突然でも、交通事故などの突然とは、ニュアンスは違っている。それは精神的なもので、
「どうせ死ぬなら、意識しないで済むように、交通事故のような突然の死がいいかも知れないな」
 という話をしている人がいたが、その話を聞いて、美咲も、
――当然のことだわーー
 と感じたものだ。
 しかし、死を覚悟するということは、最初覚悟するまでには、かなりの体力を使うことになるが、一旦覚悟してしまうと、そこから先は、それほどきつくなく、気を楽に持てる者なのかも知れない。しかし、実際に身体は迫りくる死の恐怖を無視することはできない。死というものを一番実感できるのは、身体だからである。
 次第に身体が精神についていけなくなり、無意識に精神と身体のバランスが崩れてしまい、自分では意識していないところで、かなりの労力を消費することになる。そういう意味で、
「気が付いたら死んでいた」
 というのは、本当は不謹慎なのだろうが、死の世界にも精神は続いていくのだと思うと、おろそかにできるものではなかった。
 死の世界までは、肉体を持っていくことはできない。精神だけは持っていけるが、この世の精神と、死の世界での精神とは同じものなのだろうか?
 この世の精神は、
――肉体ありきの精神――
 と考えることもできる。
 あの世には肉体はないのだから、同じ精神では死の世界では通用しないのではないだろうか。
 美咲は、自分の精神と同じものが、死の世界にも広がるものだと思っていた。その考えを変えた時期がどこかに存在したわけだが、それがいつだったのか分からない。
 美咲とは少し違うが、落合も似たような考えを持っていた。
 死の世界に存在する精神と、この世での精神に違いがあるという意識は、むしろ美咲よりも落合の方が強かった。そもそも、死の世界のことを考えるなど不謹慎であり、非現実的な考えに、落合は頭を巡らせることはないはずだった。
 しかし、これもある時を境に、考えが変わったような気がした。その時というのは、夢に見たことが影響していたようだが、どんな夢を見たのか、すぐには思い出せなかった。
 落合は、その夢の中に一人の女性が出てきたのを覚えている。それが美咲に似ている女性のように思えたが、そう感じたのは、たった今、美咲を前にしたからである。
 最初に感じた相手は、淫靡な女性の雰囲気だった。落合はそんな女性を意識しているうちに、今日久志から亜衣の話を聞かされた。だから、
――以前から意識していた女性の夢を、久志が見たんだ――
 と思った。
 しかし、考えてみれば、これは少し強引だった。
――久志の話を聞いていて、淫靡な女性の強烈なイメージを頭に描いたことで、以前から意識していたと思っていた――
 と感じるようになった。
 そう思う方が、自分の考えに合わせるかのように夢を見て、その話を久志がしたんだと思うよりも、十分自然ではないだろうか。それがすぐにはできなかったのは、自分が淫靡な女性のイメージを思い浮かべていたということを、自分の中で自己嫌悪を感じさせるからに違いない。
作品名:鏡の中に見えるもの 作家名:森本晃次