短編集18(過去作品)
約束したことを後悔していた。相手のことを考えるでもなく、あくまでも自分の感情に任せて取り付けた約束、頭に上っていた血が次第に約束の時間が近づくにつれ、急速に下がっていくことに気付いたのだ。
混乱が彩名の頭を交差する。言いたいことが山ほどあったにもかかわらず、緊張すればするほど忘れていく。きっと溜飲が下がっていくことに気付いているからだろうが、足がガクガクしてきて呼吸が荒くなってくるのを感じているのは、それだけではないかも知れない。
待ち合わせ時間が過ぎた。現われないことにホッとしている自分に気付くが、それは同時に何のためにここにいるのかという自問自答を繰り返すことにつながっていた。
――何を言いたいのだろう――
そんな気持ちに苛まれる。
彩名にとって、自分を表現するのに聡といる時が最高だったように思える。他の人相手だと、どうしても飾り立てる自分がいる、しかし聡と一緒にいれば飾ることなくありのままの自分を表に出せる。つまり自分を表現できるのだ。
自分を芸術だという風に思っている彩名は、自分を引き出してくれる人に憧れる。それが聡であることは付き合っていた時から、ウスウス気付いていたに違いない。
時計を見る感覚が短くなっている。自分ではそれほど頻繁に時計を見ている気がしないのだが、それでも感覚は狭まっている。イライラしてきたのだろうか?
――どうして来ないの?
心の中が複雑に入り混じっている。来ないことにホッとしている自分がいるにもかかわらず、何をどう考えていたか分からなくなっている自分もいるのだ。
次第に焦りがこみ上げてくる。何を考え、何をしたいのか、本当に分からなくなっているのだ。
自分の身体に変調を感じたのはその時だった。
何となくおなかがムズムズし、嘔吐や吐き気を催してきた。しかしその場を離れることもできず、佇んでいると、不思議に自分がなぜそこにいるのかが、本当に分からなくなった。
誰かを待っているのは分かっているのだ。先ほどまで、現われないことを願っているような複雑な心境だったことも、身体が覚えている。
――でも、私は誰を待っているのだろう?
頭の中から消えていた。
しばらく、近くのベンチに腰を下ろしていると、少しずつ楽になっていくのを感じる。
何のためにそこにいたのかということさえ忘れてしまっている自分に気付くのだ。
目の前に現われる人が、彩名の待ち望んでいる人のような気がして、ワクワクした気分になってくる。その人がシルエットになって浮かんでくる。彩名を包み込んでくれる人が目の前に現れるのだ。
おなかの調子が少しずつ落ち着いてくる。おなかの中に新しい生命の息吹きを感じるのだが、新しい生命の息吹きがその人を呼び寄せたのだ。
「聡」
「彩名」
シルエットとして浮かんできたその顔は、最初に出会った時の聡の顔だった。だがそこには他の女性への気持ちがまったく入っていない聡の顔がある。実に晴れやかで余裕があり、彩名を包み込む表情をしているのだ。
きっと彩名も今の聡と同じ顔をしていることだろう……。
( 完 )
作品名:短編集18(過去作品) 作家名:森本晃次