短編集18(過去作品)
もちろん彩名が母性本能をくすぐられて、なびくような女でないことや、同情では動かない女であることは彩名自身が一番分かっているはずだ。自分の性格がおぼろげであるが分かり始めていた頃なので、相手が気になる自分と、なびく自分が違うことは分かっていた。明らかに聡に感じたのは、
――気になる人だ――
という思いだった。
何となくモジモジとして煮え切らない聡を見ていて何とかしてあげたいと思ったのは母性本能だろう。しかしそれは彩名が聡を気になり始めるまで、自分の中に母性本能などというのがあるなど信じられなかった。何とも突飛な発想だが、
――彼との子供は、きっと可愛いんだろうな――
などど、子供の顔を思い浮かべてしまっている自分に気付き、ハッとしたこともあった。
それまで子供がほしいと思ったことは何度かあった。普通であれば結婚を前提に、それから子供のことを考えるのかも知れないが、結婚とは別に子供を思い浮かべるのだ。友達にそのことを話したことがあったが、
「あら、私も子供がほしいわよ。彼氏がほしいという気持ちや、結婚願望とは別にね。おかしなことではないわ。でも、そう感じてから、結婚願望が芽生えたのも事実だわ」
「そんなものなの? 普通は男の人を考えてそれから子供を考えると思っていたわ。だから私がヘンなのかと思っていたのよ」
「そんなことないわよ。女性には男性にない、母性本能っていうものがあるからね」
そう言って友達は笑っていた。彩名にも母性本能があるということである。その時はまだ見ぬ理想の男性との間に生まれるであろう子供を勝手に想像し、自分の中での母性本能を密かに育んでいたのだろう。
自分を飾ることが相手への意思表示になると重い、少し傲慢だと見られてもそれは仕方がないと思っていたが、母性本能ということを考えると、少し虚しくなってきた。
――子供がほしい――
それは自分の分身であり、その分身に嫌な思いをさせたくないと思うのも本能なのかも知れない。しかし彩名は自分の性格は自分だけで十分だと思っている。雁字搦めの性格だということは自分でも分かっていて、決して得な性格ではなく、むしろいろいろな面で損をしているはずである。
――人に合わせるのが嫌いだ――
これだけでも十分、損な性格なのかも知れない。
子供などほしいとは思わなかった。自分ひとりで生きていくのに男の存在や、ましてその先にある子供の存在など考えたこともなかった。そんな彩名が子供をほしいと思い始めたのはごく最近である。
母性本能が目覚めていたことは何となく分かっていた。それが即、子供がほしいという気持ちにならなかったのだが、最近は特にほしいと感じる。
――寂しいからなのかな?
最初はそう感じた。しかし、女性として身体に変化が訪れていることを彩名が悟ったのは、皮肉にも聡と別れてからだった。
別れてから、本当に聡を男として意識するようになったのかも知れない。確かにそれまでも聡を男としてみていたのだが、身体を初めて重ねた時の気持ちはそれ以降、二度と戻ってこなかった。鼻腔を刺激する汗を含んだ体臭、普段はたとえ紳士であっても、彩名を貫こうと必死な表情の聡、それらすべてが彩名のものだと感じることができたのは、本当に最初だけだった。
聡の彩名を見つめる目、まさしく安心と信頼を与えられる目であった。何度身体を預けようともその気持ちに変わりはないのだが、なぜか最初に感じた男としての聡を見つけることができなかった。
――彼は私を本当に見つめてくれているんだろうか?
たまに感じたことがある。まだ前の彼女を忘れることができないのではないかと感じた時、彩名を抱きながら彩名の後ろに昔の彼女を見ていたのかも知れない。
一言で言えば、冷めてきたということだろう?
――どうしてこんな男に惚れたのだろう――
とまで感じたが、それでもズルズルと付き合っていたのは、
――このまま別れては私の負けだ。いずれは自分の方を向かせてやる――
という思いがあった。自尊心を傷つけられるのを極端に嫌がる彩名らしいところと言えるのではないだろうか。
だが、彩名自身が冷めてしまっているのではどうしようもない。お互いにすれ違いを感じ始め、そして一番いい別れ方を選んだのだろう。お互いに傷つくことのない別れ方、それが友達に戻ることだと思っていた。
しかし、それは却ってきつい選択だったように思う。別れてすぐは、肩の荷が下りたようで気持ち的に落ち着いていたが、いきなり刺激がなくなったようで、しばらく落ち着かなかった。その原因が別れたことにあると分かっていながら、その原因までは理解できない自分が悲しかった。
――マンネリ化した気持ちを払拭するために別れたのに、なぜ刺激がなくなった気持ちになるのかしら――
聡はどう考えているのだろう。プレイボーイぶりを発揮し始めた聡は彩名と別れてからすぐに他のガールフレンドを作った。しかし見かけるごとに相手の女性が変わっている。
――やっぱりこんな人と別れてよかったんだわ――
と最初はそう思った。しかし聡の顔に浮かぶ表情が次第に憔悴していくように見えるのは気のせいだろうか?
そんな中に彩名は自分の友達を発見したこともあった。女性は最初彩名に対して挑戦的な表情をしていた。
――あなたの男を奪ってやったわ――
とでも言わんばかりの表情に彩名の自尊心は傷つけられた。しかし、必死で表情を変えることなく二人を見つめる彩名に、少しびっくりしたような表情を浮かべたのは聡であった。
彩名は勝ったと思った。相手の女などどうでもいいのだ。聡がビックリするような表情を浮かべるのを見るのが彩名にとっての喜びであった。何とも浅ましい女なのだろう。自分でも分かっている。こんな表情だけは鏡では見たくない。
彩名の気持ちは、すさんでいった。それに比例してか、聡の表情も冴えないものになっている。
――もしやり直すとしたら、知り合った時からかしら――
彩名は漠然と考えるが、やり直しができるのだろうか?
このままではお互いにまずいということは分かっている。きっと今何とかしようとしても、それはどうしようもないのだろう。
聡が前に付き合っていた女性が紗枝であることを知ったのは、最近になってからのことだった。それまでは、聡の過去のことに触れるのはタブーだと思っていたし、そんな必要などないと思っていた。付き合っている時は自分を見てほしいという気持ちが優先し、敢えて昔の女性について言及することは控えていたし、黙って調べるような姑息な手段などもっての他だった。
聡がプレイボーイであるということも、別れてから知ったようなものだった。
彩名がなぜ紗枝を呼び出す気になったのか、本人にもよく分からない。呼び出すつもりで連絡を取った時、確かに彩名には何か言いたいことがあった。次第に下がっていくテンションを感じながら、その原因について分からない自分に焦りがあったのも事実である。呼び出した手前、何かを言わなければいけないと思いながらさえが現われるのを待っていた。
約束の時間になるまで、彩名の気持ちは、
――どうしよう、現われたら何て言おう――
作品名:短編集18(過去作品) 作家名:森本晃次