短編集18(過去作品)
「そっか、いつまでもあんな状態だったら、俺の方も溜まったものじゃないからな」
そう言って人目をはばかることなく大声で笑い始めた。
ひょっとしたら、これが聡の一番いいところかも知れない。人のことを気にすることなく気持ちをストレートに表わす聡を見ていると、ますます心臓の鼓動が増してくるのを感じた。
――どうしたのかしら私――
こんな気持ちは久しくなかった。聡と付き合うことになった時にも感じなかったような胸の鼓動。考えてみれば交際期間が結構長かったので、付き合い始めた時の感動もあまりなかった。
知り合った頃はどうだったんだろう?
思い返してみると付き合い始めた時の聡への印象はあまりいいものではなかった。ちょうど失恋したあとだったようで、前の彼女のことが忘れられずに苦しんでいる。そんな姿を見て母性本能をくすぐられるタイプではない彩名は、本当は最初から相手にしていなかった。アプローチをかけてきたのは聡の方からだったのだ。
それまでに、彩名はいろいろな男から声を掛けられたりはしていた。しかし、見るからに低俗に見える男たちを相手にする気は毛頭なく、最初から見る気もしなかった。
「彩名はお高くとまっている」
という一部の噂があるのも事実で、噂を聞いた彩名はショックを受けることもなく、
――所詮低俗な連中のやっかみよ――
とばかりに、相手にするつもりはない。ある意味純情ではあるが、性格的に強情なところもあるのだ。そういう意味で最初からあまり積極的ではなかった聡に対して、知らず知らずのうちに意識していたのかも知れない。
失恋したあとというのは、なかなか積極的にはなれないものだ。中途半端にアプローチされると、却って彩名はストレスが溜まってくる。それは女性としてのプライドの問題だと思っているが、今まで自分に言い寄ってきた低俗な男どもと、そんなに違わないのではないかという思いが頭を掠める。しかし、そんなことはないと思わせてくれたのも聡だった。
「私のどこが気に入ったの?」
お互い意識し始めた頃、聡に聞いたことがあった。
「彩名さんは痒いところに手が届きそうな人だ。気持ちに余裕があるというのか、一緒にいて安心するんだよ」
無意識に首を傾げた彩名は、少し考えて、
「それは、前付き合っていた彼女と比較して?」
少し考えたのは、本当に聞いていい質問かどうかを迷ったためだ。しかし聡は軽い苦笑いを浮かべただけで、
「ああ、そうだね。前付き合っていた彼女とはいつも、ぶつかり合っていたような仲だったね。でも、気持ちは真剣だったんだ。ただ、気持ちに余裕がなかったことがお互いにお互いを苦しめ、結局ボロボロになってしまったんだね」
最初、聡の言いたいことが分からなかった。しかし表情には余裕を感じたのも事実である。
彩名の中で何かが崩れ落ちるのを感じた。それは突っ張っていた自分の箍が外れたような感じで、決して不快なものではなかった。一塵の風が吹き抜けていったような爽やかさがそこにはあったのだ。
春になって桜の香りが漂う並木道を歩いていて鼻腔に心地よい爽やかさを思い返すことができる。聡と知り合って初めて人に対して感じた爽やかさだった。ちょうど雪解けの季節と桜の季節が重なったかのような一変に襲ってきた気持ちの変化であった。
逆に刺激のある変化でなければ、一人で孤独を耐え抜くことを基本的な考え方としていた、悪く言えば意固地な彩名の気持ちの雪解けは難しいだろう。彩名自身が一番そのことを分かっていて、心の中で雪解けをしてくれる、背中を押してくれるような男性を待ちわびていたに違いない。
今まで彩名は一目惚れということをあまりしたことがない。中学の頃にはあったような記憶があるが、それでも意固地な性格が邪魔をしてか、自分の中で意識として残っていない。聡と出会って、過去の思い出を顧みることで、彩名自身初めて意識したのかも知れない。
「私はあなたと出会って、初めて過去のことに対峙できるようになりました」
仲良くなっても彩名は敬語をやめない。普通なら親しくなるにつれ敬語を使うこともなくなるのだろうが、それが彩名の信念なのか、最初と同じように接する。それに対して聡も何も言わないが、きっと気持ちは分かっていると思う。
――私が唯一従順になれる人――
それが聡だったのだ。
彩名は思う。聡に甘えていたいのだが、それは自分の信念を曲げることだ。従順な態度で聡に尽くすことが自分の甘えだと……。
彩名は男にべったりの女性を嫌らしいものでも見るような目つきで見ていた。それは女性に対してだけではない。鼻の下を伸ばし、寄り添ってくる女性を見て恍惚の表情を浮かべていることがどうしても分からない。男性として直視することができないほど羞恥に思えてくるのだ。
「何とも思わないのかしら」
思わずグチを零してしまうが、それは女性にというよりも男性に対してである。
やはり彩名も女性なのだ。心のどこかで、
――男性に甘えたがるのが女性――
だという思いを払拭できないでいる。女性が悪いというよりも、甘い顔をする男性が悪いという意識があるのだ。だが、彩名はそんな女性には自分は絶対にならないという自負がある。それはきっと自分が他の人とは違うんだという意識が強いからだろう。弱い女性を見ていて、自分に優越感を覚える。それが至福の快感になってきている。
無意識だったに違いない。最初から意識などしていなかったのだが、意識し始めると、余計に殻に閉じこもり、男も女も蔑視している自分に気付いた。時々そんな自分が嫌になることもあったが、そんな自分を変えようとは思わない。自分を顧みた時に、それ以外の自分が思い浮かばなかったからだ。そういう意味で、
――自分を変えてくれる人――
の存在を待ちわびていたのは事実なのだ。
男性に違いないと思っていた。女性ではきっと自分のこんな性格を返るだけの力はないだろう。なぜなら自分も女性で、女性の気持ちが分かるだけに、どうしても甘えや妥協が生まれることは必至だったからだ。異性だったら、よく分からないということで好奇心もあるだろう。しかし、女性に対してのような甘えはないような気がする。ただ、相手に従順であるような自分を作りたいと思うことで、頼りがいのある男性を待ち望んでいた。
聡が本当に彩名を救ってくれる男性であるということを最初から分かっていたわけではない。何しろ、女性によくモテる。どこかにモテる要素があるのだろうが、彩名には分からなかった。どうしても男性ということで警戒心が強く、自分から曝け出そうとせずに、絶えず相手を探ろうとする鋭い視線をしているに違いない。大抵の男だったら、そこで一歩引くのだろうが、聡に引くような素振りはなかった。どちらかというと普段からニコニコしている様子の人ではないのだが、彩名が鋭い視線を浴びせた時に笑みが零れる。満面の笑みに見えるその笑顔に、却って彩名の方が臆してしまうくらいだ。
――包み込まれるような笑顔――
作品名:短編集18(過去作品) 作家名:森本晃次