短編集18(過去作品)
「さあ、何のためだろうね? でも、その答えはきっと君が大人になって気付くことになるはずだよ」
「どういうことだい?」
「大人になれば分かるということさ」
そう言って男はまた笑った。
私の記憶はそこまでである。
大人になった今でもその時のことは覚えている。しかしあのおじさんが言っていた、
「大人になったら分かるはず」
という言葉はいまだに実現していない。謎のままである。
いつもいつも思い出すわけではないが、時々思い出している。そして回想している時には、いつも思い出している気がするのだ。何とも奇妙な感覚である。
「大人になったら……」
という大人は一体いつのことなのだろう?
おじさんが私たちを見つめる目を、私は最近になって見たことがあるような気がする。その目を見た時に、
――どこかで見たことのある目だ――
と感じたわけではない。
その目を最近になって頻繁に感じるようになった。そう、見るというより感じると言った方がいいかも知れない。どこかで見たと思ったのは、その目を感じてからかなり後のことだったような気がする。
最近になって子供の頃のことをよく思い出す。特に母親と行ったあの診療所のことや、遊んでいて私たちを覗き込むあの紳士の顔である。もちろんハッキリと覚えているわけではないので、かなりおぼろげではあるが、少なくとも夢の中での私はあの頃の子供に戻っているに違いない。
躁状態が続いている時によくその夢を見る。夢の中で、
――子供の頃に戻りたい――
と思っているのを感じる。自分が子供に戻っているのにである。
夢とは実に不思議なもので、現実では明らかに辻褄の合わないことであったり、理屈の通らないことであっても正当化されてしまう。
例えば、夢の中で学生時代のシチュエーションを見たとする。友達すべては学生で、自分もキャンパス内を友達と一緒に歩いているのだ。
卒業が危なかった記憶のある私は、友達に必死でノートを借り歩いたり、図書館で勉強したりした記憶そのまま夢に見るのだ。
しかし不思議なことに、夢の中では自分が社会人だという意識がある。あってその中で卒業が危ないという思いが巡るのだ。
実に辻褄の合わない、理屈の通らないことである。だが、夢とはそんなものだと理解している。きっと自分の中にあるトラウマが、自分を自分の夢の中へ誘い、気持ちを彷徨わせるのだろう。
トラウマ、それは皆が抱えていることで、しかもそれは一つではないだろう。精神状態によって夢で見ることがあっても不思議のないことだ。
しかもそれが鬱状態であれば尚のこと、起きている時に感じることのない感性を、夢の中で感じたと考えればいいのかも知れない。
夢の中での私は子供を見下ろしている。子供が不思議そうに見上げているのだが、そのうちの一人は私の顔を興味深げに見ている。その中には親しみを感じる笑みを感じ、懐かしさが滲み出ているように思えるのだ。
まさしくその子は小学生時代の私、そして舗装されていない道で遊んでいる私を見下ろす紳士、そのシチュエーションを夢で見るとは、まさか子供の頃の記憶では思わなかった。確かに印象深かったことは事実で、なかなか忘れることができないだろうとは思っていたが、ここまで執着しているとは思わなかったからである。
男の表情だけがそうさせるものだとは思わない。もちろん、周りの環境からもそうだろうし、舗装されていない道に油の臭いの染み付いた木塀、そのイメージが私を夢の中に誘うのだ。
臭いといえば診療所での臭いのことも気になっている。あの臭いは木塀に染み付いた油の臭いと違い、思い出すことができない。雰囲気として甘く少しだけ酸っぱさを含んだような香りだというイメージがあるのだが、あまり気持ちのよい臭いではなかったことは間違いない。
診療所に行った時のことも夢に見たことがあった。思い出すのはゆりかという看護婦のことがほとんどで、あまり他のイメージがないため、どうかすると診療所での臭いがそのままゆりかの臭いだと感じてしまったりする。
――淫靡な香り――
それが私にとっての診療所での臭いなのかも知れない。
夢というのは目が覚める寸前に見るものだというが、意識の中にそれがあるため、目が覚めてから自分の中で夢の記憶が繋がらないのだ。私が忘れっぽい性格だというのも、
――まるで夢の中の記憶に似ているのではないか――
と感じるのは突飛な発想だろうか?
いや、自分ではそうは思わない。
――夢と現実――
これは明らかに違うものである。しかしその境界は一体どこにあるのだろう。ハッキリ見えるわけではないし、考えたこともない。
――起きて見るのが現実で、寝て見るのが夢――
ただそう考えているだけではないのだろうか?
時々そんなことを考えることがある。それがいつも鬱状態の時だということに気付いたのは、いつだっただろう? 最近のことに違いないはずだ。
――自分の中にもう一人いる――
そのことについては何度も考えたことがある。しかし、本当にもう一人だけなのだろうか?
子供の頃によく遊んだ中で、
「どこを切っても金太郎」
というフレーズとともに金太郎飴を思い浮かべたことがあった。気になるフレーズだということだろう。別に普通のお菓子なので不思議なものではない。しかし、自分の中にもう一人の自分がいると感じ始めた時から、このフレーズが気になり始めたことは間違いない。
その頃から、いつも考え事をするようになった。何をやっても上の空で、気がつけば時間が勝手に過ぎている。
――時間というのは時として意識の中にないものだ――
とも考えるようになった。時間を気にしている時は実に規則的に刻んでいるものなのに、他のことを考えていると実に流動的だ。あっという間に過ぎることもあれば、なかなか過ぎてくれない時もある。
時間というのは長さによっても感じ方が違うようだ。
一時間が、とても長く感じられる時でも、一日経ってしまってその時のことを思い出せば、得てしてあっという間に過ぎてしまったような気になる時もある。そんな時は疲れている時だったり、鬱状態だったりする時だ。きっと時間に対しての意識が強いからであろう。逆に一時間が短くてあっという間だったにもかかわらず、一日が長く感じられるのは、それだけ短い時間が楽しく、全体として充実している時だろう。そんな時は時間の感覚よりもその時々の意識が強いからであって、時間というものを満喫できる時なのだ。そんな時の自分が輝いて見えるのは無理もないことだ。
自信過剰になっている時の私というのは、時間に対してどんな感覚を持っているのだろう?
自信過剰な時はあまりあれこれと考えていないかも知れない。鬱状態の時の色がグレーであれば、自信過剰な時に感じる色は鮮やかなブルーである。それは雲ひとつない澄み切った空であり、海底が見えるほどの綺麗な海の色である。
作品名:短編集18(過去作品) 作家名:森本晃次