短編集18(過去作品)
トイレで自分の顔の角度によっての違いを見ているだけに驚きはしなかった。しかしさっきは自分の顔だったので、勘違いというのがあるかも知れないと心の中で多少は感じていた。今、明らかにゆりかの顔に浮かんだ表情の違いは、先ほど私が感じたものと同じようなものだった。これでもう自分の中で勘違いとして済まされるものではなくなってしまった。
詰め所にいるゆりかの表情がまるで悪いことをしてそれを隠しているような表情に見える。なぜ小学生の私にそれが分かったかというと、よく自分も悪いことをしていて母親に隠し事をすることが多い。そんな時にする自分の顔を感じるからだ。
しかしそんな時の自分の表情を見たことがないにも関わらず分かるのはどうしてなのだろう。きっとゆりかを最初見た時から、心の中に引っかかる何かがあって、それが次第に大きくなっていくのを感じているからかも知れない。
それまで女性に対して特別な感情を抱いたことはなかった。学校の先生くらいしか、肉親以外での女性と接することのなかった私に、優しい声を掛けてくれたゆりかは初めて感じる「女性」だったのだ。
その彼女の思い詰めたような顔、それがしばらく私の頭に残って仕方がなかった。それから数年経って自分が忘れっぽい性格だということを自覚し始めた時、ふっと思い出したように浮かんでくる女性の顔、それがゆりかだったことをしばらくは分からなかった。
病室に戻るとすぐに母親は帰ってきた。
まるで私が病室に戻ったのを待ち構えていたかのようなタイミングに自分でもビックリだが、出て行った時とまったく変わらない表情をしている母親の前で、私も無表情でいるしかなかった。
「さて。帰るわよ」
荷物を抱えて立ち上がった母親は、詰め所に一度会釈をしただけで、淡々と歩いている。ゆりかの表情も淡々としたものだった。病室で私の相手をしてくれた表情とも、先ほどの思いつめたような表情ともまるで違う。どれが本当の表情なのか、ずっと見ていたい衝動に駆られるのを必死に抑え、私は母親の後に続いた。これが小学生の頃に来た時の思い出であった。
あれから何度か大学病院のようなところには顔を出している。祖父の死にも立ち会った。
小学生の頃に見舞った「おじいさん」とは違う人である。そのおじいさんが私にとってどういう繋がりのある人だったかということを母親は教えてくれなかった。そればかりか、
「今日、診療所に行ったことはお父さんには内緒にしなさいね。いいわね」
と釘を刺された。
もちろん、話すことはしなかった。なぜなら母親のその日の表情そのままで、見つめるように諭されると言えるわけもなかった。完全に金縛りにあってしまったかのようになってしまった。
そんなことがあってからだっただろうか、私が自分の躁鬱に気付いたのは。
小学生で躁鬱などということは分からなかった。分かるのは、
――何をやっても面白くない――
という思いと、
――何か色が違う――
という思いが交差していることだった。
その二つが相関関係にあり、鬱状態の時の症状だと気付いたのは、ずっと後になってからだったと思う。それまでは漠然と感じていて、そこに何ら関連性はないものだと思っていたのだ。
「お父さんには言わないで」
この言葉がやけに私の頭に残ってしまった。
父は厳格な性格である。隠し事や嘘というものを極端に嫌い、曲がったことを許せない性格だった。そのため私や母がどれほど父に気を遣っていたか、今から考えただけでも寒気を感じる。
忘れっぽい性格に気付き始めた時は、本当に怖かった。父から何と言われるかということもそうなのだが、視線が恐ろしい。
父は他人にも厳しいが、もちろん自分にも厳しい人だった。それだけに安心感もあり、
――父の言うことに間違いはない。導いてくれた方についていけばいいんだ――
と子供心に感じていた。
――父に信頼を受けること、それが私たち家族の生きる道――
とまで考えていたのだ。
当然、父の言うことには間違いなどあろうはずもなく、従うことが一番だと思っていたのだ。
そんな父に秘密を持ってしまった。その秘密がどれほどの大きさのものかなど想像もつかなかったが、父に従うことを私に教えてきた母が自ら父に秘密を持ったのである。しかも子供である私を巻き込んで……。それが尋常ではないことは子供の私にでも分かるというものだ。
そんな父も私が忘れっぽい性格であることに気付いたようだ。
あれは高校に入った頃だっただろうか。私が母親との会話の中で物忘れについてのことに少し触れたのに気付いたようだった。
母は私が父にそのことを知られたくないと分かっていなかったし、母自体も私が高校になるまで忘れっぽい性格であることに気付かなかった。
もちろん、なるべく隠してきたつもりだったのだが、さすがに毎日一緒に暮らしているのである。気付かない方がおかしいというものだ。
母はそんな私を罵倒する。その頃ちょうどイライラが目立ち始めた母だったのだが、それまでは私に説教などしたこともなかった。それも例の診療所に行ってからのことであり、私に父への秘密を作らせたことへの遠慮があるものだと思っていた。
それは当たらずとも遠からじだろう。実際に母が私を叱らなければならない立場であっても、私を叱ることはなかった。覚悟していたのに肩透かしを食らったことが何度あっただろうか。
しかし、それもイライラが募り始めた頃、私に対しての見方が少し変わったのかも知れない。厳しくなったというか、それまで正面から見ようとしなかった私を、まともに見るようになったのかも知れない。
それまでの母は家にいても、心ここにあらずのような時があった。話しかけても、
「え? 何か言った」
と上の空である。
しかし、イライラの原因は分からないまでも、上の空ではなくなっていた。それまでの母を見ているのは複雑だった。
あまりうるさく言われるのは嫌だった私は、きっと父親に対する無言の反発のようなものがあったのだろう。それは父中心の家庭の中でいつも父に気を遣っている母を見るのが嫌だったというのもある。なぜなら父に対して気を遣いながら生活している自分の姿を母に写して見ているからである。
――あんなに卑屈にならなくてもいいのに――
と感じるのは、きっと自分に言い聞かせていたからに違いない。
母がイライラし始めてからの父の態度が怖いのもあるが、正直どう変化するかというのを見てみたい気持ちもあった。
――怖いもの見たさ――
に似たものを感じたのは、心の中で他人事であるかのように、客観的に見ていたからかも知れない。だが父の姿は私の想像とは違うものだった。近いものは感じていたかも知れないが、そのものズバリは想像の域をはるかに超えていた。
それにしても我ながらよく覚えているものである。
いつもであれば、覚えておかないければならないということは、必ず忘れていることが多く、メモに取ったとしても、どこに書き残したかすら覚えていないくらいなのだ。それが、今回のことに関しては鮮明に覚えている。
――ひょっとして、肝心なことは忘れているのかも知れない――
とも、感じている。
作品名:短編集18(過去作品) 作家名:森本晃次