短編集18(過去作品)
と思うようになっていた。
それはきっと診療所の全景を見たからかも知れない。
それは前面コンクリートの要塞のような建物だった。少し肌色掛かった建物は、決して褪せているわけではないが、あまり新しい建物でもなさそうだ。肌色という色が、そういうどちらとも取れるような色なのだろう。
建物は三階建てで、まわりには本当に何もないところなのだ。こんなところに診療所、小学生の私の理解をはるかに超えていた。
歩いていくうちに何となく奇妙な臭いを感じるが、それは今までに嗅いだこともないものだった。田舎の臭いともまた違うもので、病院の臭いとも違うものだった。
変な甘さを含んだ臭いである。しかもその中には少し酸味かかった臭いもあり、何となく気持ち悪かった。
――何か甘いものが腐ったのかな?
何となく感じたが、果たして何だったのかは分からない。
その臭いがし始めてからの母親の手の平はグッショリと濡れていた。いや、そのうちに震えとなり、それが次第に大きくなっていくのを感じた。
――何かに怯えているのかな?
しばらく立ち止まって建物の全景を見ていたが、そのうち意を決したのか、母親は私の手を引っ張ったまま、歩き始めた。目的地に着いて「村松」と書かれた病室に連れていってくれて中に入った私が見たものは、ベッドに身動き一つできずに横たわっているおじいさんの姿だった。
――これがおじいさん?
そう感じたのも無理はない。髪の毛が見えないほど頭には包帯がグルグル巻きにされ、口には酸素マスクが被せられていた。そして捲り上げられた腕には点滴の針が刺さっていて、実に痛々しい。見ていられないほどの状況だった。
「ピッ、ピッ」
規則的な機械音が聞こえる。きっと心臓の鼓動を確かめる機械なのだろう。まさかここまで重態と思っていなかった私は思わず見ていられなかった。母親の緊張の原因がここにあったのだと私は思った。
「雅之ちゃんはここで待っていてね。お母さんは先生とお話がありますから」
そう言って出て行った。
「僕を一人にしないでよ」
寸前まで出掛かった言葉を必死の思いで抑え、飲み込んだ。入れ替わりに看護婦さんが入ってきてくれたので、きっと母親が私のために頼んでくれたのだろう。
まずは定期的なことなのか、機械の様子や病人の様子をじっくり確認しているようだった。これだけの厳重な治療なのだ。念入りに見なければならないだろう。手板に挟んだ紙にいろいろ書き込みながら、点滴の様子を確認している。看護婦というのは本当に大変だと思った。
形式的なことが終わると、
「ボクは、ここ初めてくるの?」
「ええ、今までは母だけが来ていたみたいなんです」
「そうだわね。お母さんしか見たことがないものね」
最初は少しとっつきにくいタイプの人かと思ったが、話をしてみると優しさを感じる。
病院というところは、自分が病人でなくとも、雰囲気や臭いで病人になったような錯覚に陥りやすいものである。心細くもなるというもので、それが分かっているのだろう。母親が看護婦さんに声を掛けてくれた理由がそこにあるような気がした。
それだけに看護婦の存在はありがたかった。白衣がこれほど暖かく感じられたことは今までにない。頼もしさと優しさの両面を感じていたのかも知れない。
「おじいさんのこんな姿を見てビックリしたでしょう?」
「うん、少し。でも、一体どこが悪いの?」
一瞬看護婦は口ごもった。だが、すぐに笑顔になり、
「もうだいぶお歳なので、そのためにいろいろなところに障害を持たれてるのよ」
おじいさんを見ているだけで痛々しい。看護婦さんをなるべく見るようにした。
気がついたらマジマジと見つめていた。小学生だから許されるが、大人だったら実にいやらしい視線だっただろう。
看護婦さんも気付いているようだ。私の視線をどう感じたのだろう?
それが分かったのは急に無口になったからだ。何となくソワソワしている看護婦さんを感じた。私も自分が小学生だという意識はあったが、それよりも今までに感じたことのない、
――一人の男――
を感じていた。
もちろん、こんな感覚は初めてだった。機械音が響くだけだった中で、お互いの息遣いを感じる。次第に機械音がフェードアウトしてきて、逆に息遣いが大きくなってくる。まるで空気が濃厚になっていくように感じ、それが息苦しさを感じさせた。
心臓の鼓動も一緒に感じる。私の方がかなり早いのか、鼓動が追いついたと思ったら、すぐに私が追い越してしまう。不思議な時間が過ぎていった。
「おかあさんのお話は少し長くなりそうだから、少し待っててね」
そう言って看護婦さんは一旦出て行った。名札を見ると「仁科ゆりか」と書かれている。
――綺麗な名前だ――
何となく会うのが初めてではないような気がしたのは気のせいだろうか?
クラスにゆりかちゃんというクラスメートがいるが、少し大人っぽさを感じさせる女の子だ。何となく彼女とダブッて見えたのは仕方のないことだろうか?
――それにしてもこの病院は中に入っても不気味な気がする――
さっきまで看護婦さんがいてくれたからよかったが、一人になると途端に寂しさが戻ってくる。
病室に一人でいるのが少し長くなった。お母さんが出て行ってからそろそろ一時間以上が経とうとしている。
――これ以上は耐えられない――
機械音だけで、自分までが生きているのか死んでいるのか分からなくなりそうな、そんな部屋にいればいるほど息苦しくなってしまう。空気がこれほど重たいと感じたことはなかった。部屋の中に湿気を感じ、生暖かさがそのまま空気を重くしているような気分だった。
私はいてもたってもいられなくなり、とりあえずトイレへと向うのだった。
「なんてところなんだ。さっきの看護婦さんだけが僕の救いだ」
思わずトイレの鏡に向って呟いた。
鏡に写った自分の姿を見るなど久しぶりだった。
――こんな顔していたんだ――
別にナルシストではないが、顔の角度を変えてみたり、表情を変えてみたりして自分の顔を観察してみた。よく見ると、右を向いた時と左を向いた時とでは、表情に微妙な違いがある。最初は分からなかったが、明るさが違うというのか、まるで光の当たり方が違う時に感じる影が表情の明るさの違いを作り出しているようだ。
きっとそれが今の私が感じている躁鬱症のようなものだと思うのだが、もちろん小学生でそんなことが分かるはずもない。だが、そのことがずっと潜在意識として残っていたからであろう、ずっと後になって自分の中にもう一人いるという感覚に納得したのである。
トイレが終わり病室に戻る途中、看護婦詰め所がある。そこには数人の看護婦が常駐しているのだが。その中にさっきの看護婦、ゆりかがいた。
一生懸命に薬か何かを分けているのが見えたが、その表情は先ほどと違うものだった。先ほどの私に対してのニコヤカな表情と打って変わって、思い詰めたような、暗い表情に見えて仕方がなかった。
――明らかにさっきとは違う――
作品名:短編集18(過去作品) 作家名:森本晃次