短編集18(過去作品)
死期を見つめる
死期を見つめる
私がいつも、自分に感じることがいくつかある。人に言われて気付くこともあれば、自分で実際に感じることもある。人に言われて気付くことであっても、きっと今までもウスウスと感じていたのだろう。それを認めたくない自分がいたに違いないのだ。
自分に感じることとは、どちらかというと良いことではない。それだけに気持ちの中で反省のようなものと、自己嫌悪が渦巻いているが、どうにもならない自分がいるのも事実で、最近は落ち込んでいるように見えるかも知れない。
しかもそれが相関関係にあるのだから始末が悪い。
「一つがなければ、もう一つはない」
そんな気持ちにさせられるが、よくよく考えると、自分の中に潜在していたものであれば、今回出なくともいずれ現われるものだったのだろう。そう考えることが自然なのかも知れない。
まず最初に感じたのは、
「自分が忘れっぽい」
ということである。
人から聞いたことはおろか、せっかくそれをメモっても、メモッたことさえ忘れている。
「そんなことは俺だってあるよ」
友達に話すと苦笑いをしながら答えてくれて、私も最初は、
――そうだよな、私だけじゃないんだ――
と思っていたが、そんなことが何回か続くと、さすがの私も少し考えてしまう。
私は元々あまり物事を深く考えない方だと思っていた。深く考えても悪い方に考えるだけだし、それが分かっているから考えないんだと思っていた。
そう、私は楽観的だった。しかも「合理的」に物事を考える方なので、深く考えることが、その労力と導き出させる結果とを考えると、自ずとその労力が「無駄」であるという答えを最初から分かっていたような気がしているからである。ある意味、子供の頃から「かしこく」て、覚めた目で見ていたのかも知れない。
忘れっぽい性格ではあったが、それよりも自分の中で好きだと思っていた性格があった。それは、いつも何かを考えているということであり、想像力を豊かにする力であった。
小学生の頃は算数が好きだったこともあり、規則的に並んだ数列が私には神秘的に感じられた。規則的な並びを自分なりに考え、まるで自分が考えた法則でもあるかのごとく、自慢げに先生に話したりしたものだ。今から考えれば、そんな私に付き合ってくれた先生も有難かった。
そう、私の中では、忘れっぽい性格というのは、想像力とは相反するものであり、想像力を欲するあまり、忘れっぽい性格を無意識に打ち消してきたのではないかと考えるようになっていた。
それを感じたのはごく最近である。仕事もだいぶ慣れてきて、少し落ち着いてきた頃からであった。それまでは覚えなければいけない仕事が多いにもかかわらず、忘れっぽい性格が災いしていつも上司から怒られていた。
「一度だけは丁寧に教えてやるが、二度目からはそうはいかんぞ。お前たちも社会人になったんだから、しっかり自覚を持つんだ」
言っていることは至極当たり前のことである。しかし忘れっぽい性格だと感じ始めていた私には、その言葉はプレッシャーにしか聞こえない。
「はい、分かりました」
一斉に声を上げるが、私の声は沈んでいた。
「覚えられなければ、メモにとればいいじゃないか」
そう言われるが、メモの取り方も下手な私は、書いたことがメモのどこにあるかすら分からなくなってしまう。それだけ、新入社員の覚えなければいけないことは多いのだが、皆同じ環境なので、何を言っても言い訳にしかならない。
どうしても合理性を考える私としては、自分なりに納得のいかないことは、深く頭に入らないようになっているようだ。小さい頃はそれでも、教育を受けているという考えから、数多くのことを吸収しようと思っていただろうが、何しろ理不尽なことの多い世の中、何を信じていいか分からなくなっているのも事実で、自分が消化しきれない事実を覚えられるわけがないではないか。それも最近になってやっと分かってきた気がしてきた。
それともう一つ、私は煽てに弱い方である。
煽てられたりしてすぐにその気になることもあるが、それも自分に自信があるからだと思ってきた。
「煽てられて力を出すやつは、本当の力ではない」
という人もいるが、
「煽てられて力が出せるってのは、その人の個性だよ」
と反論する。
「個性で片付けられる問題か?」
「ああ、個性とは、その人が持って生まれたものであって、潜在的なものだからな。それで、自分に自信がつくのなら、いいじゃないか」
そう言って何度も議論を交わした友達も大学時代には多かった。
元々、大学時代に心理学を専攻していた友達が多く、彼らも私と似たような意見を持っていた。
いや、類は友を呼ぶとでも言うべきか、できた友達が偶然、似たような考え方の人が多かっただけに、お互いに話すことで影響しあっていたことは言うまでもない。
そんな友達と話すことでお互いに自分の考えを確かめ合っていたようなものだった。
しかしそれも今考えるから分かることで、それだけ今の私が成長したということなのかも知れない。
煽てられて力を出す人間というのは、上司から見てどうなんだろう?
使い勝手はいいかも知れないが、実際にその人が上司の立場になるとどうなんだろうとも考えてしまう。しかし、私的な考え方でいけば、部下の気持ちの分かるいい上司になれそうな気がするのだが、いかがなものなのだろうか。
どうしても自分を中心に考えてしまう。いや、自分を中心に考えるから、まわりを見ようとできるのかも知れない。まわりから先に考えてしまうとどこから自分を見つめていいのか分からない、きっと何が難しいといって、自分を客観的に見ることが一番難しいのかも知れない。そこに打算や、贔屓目もなく考えるというのは難しいに違いない。
自分中心に考えるということは、得てして悪い意味に取られがちである。それというのも、自分勝手だということと、個性をアピールすることを混同して考える風潮があるからだ。そのために個性を尊重と言いながらも、平均的な人間がどうしても無難に思えてくるのだ。
――一つのことに秀でている人間――
そんな人が私は好きである。
特に芸術家などその最たるもので、
「芸術家には変わり者が多い」
と言われるのも、平均的な人間が好まれるための色眼鏡のようなものなのだ。確かに変わった人もいるかも知れない。だが、自分に厳しい態度が高じて、他の人との隔たりが、他人にも厳しく見えるだけなのかも知れない。
そういう意味で私は自信過剰な性格である。躁鬱症の気のある私は落ち込むと、そんな自信などどこかへ吹っ飛んでしまう。
人と話すことが億劫になり、人の笑顔が疎ましく、とにかく周りの色が違うのだ。
どう違うかと言われると分かりにくいが、昼間はまるで絶えず黄砂が降ったように埃っぽく感じ、それも少し黄色掛かっている。そして夜になると、明かりだけがやたらとまぶしく感じ、信号の「青」も本当の青さを感じることができる。昼はぼやけていて、夜ははっきり見えるのだ。
――きっと違う自分がこの身体には住んでいるのかも知れない――
そう感じるのも無理のないことだ。
作品名:短編集18(過去作品) 作家名:森本晃次