「透明人間」と「一日完結型人間」
一日完結型などという言葉は発想の中になかったが、前に進む自分と後ろに戻ろうとする自分がいるのを感じたことはあった。
どこかに重心があって、両端でつりあっているような感覚になった。それを思い出した時、昨日見たと思った男性のシーソーの光景が思い起こされるのだった。
誰もいないのに、自分の方が上にいるというおかしな光景であったが、彼のいう透明人間がもう一つのシーソーの端に腰掛けているとすれば、辻褄は合っている。
亜衣は一日完結を創造している時、
――一日を繰り返していることで、身体や心がリセットされて、疲れも疲労も忘れさせてくれる――
と考えたことがあった。
一日の終わりがリセットされることで、もう一度同じ日を繰り返す環境ができるという考え方だ。
亜衣は今日、公園を見つけることができなかったことで、自分が別の世界に入り込んでしまったのではないかと考えた。その世界は、ひょっとすると、昨日の男性が存在している世界なのかも知れない。
しかし、その考えは究極だった。昨日が夢だったのだと考える方が、よほど信憑性がある。それなのに、あくまでも昨日見た光景を信憑性のあるものだいう前提で考えていること自体、おかしな考えなのだろう。
亜衣は、公園があったと思っていた場所から、何を思ったか、元来た道を帰り始めた。その方向は自分の家とは正反対であり、もう一度、バーへ戻る道だった。
そんなことは分かっているはずなのに、亜衣は迷うことなく、来た道を戻っていた。ただ、頭の中では絶えず何かを考えているのだが、他の人が見れば、
「ただ、ボーっとして歩いている」
と、感じるに違いない。
確かに、亜衣には元来た道を帰っているという意識はあったが、目の前に広がっている光景を意識しているわけではなかった。同じ道を帰っているはずなのに、歩いてきた道とはどうも違っているようだ。どこがどのように違っているのかというのは、まるで間違い探しでもしているかのように、微妙なところが少しずつ違っているのだ。
微妙なところがいくつも少しずつ違っているというのは、ある意味、マイナスとマイナスを足すと、マイナスを打ち消しているかのように感じられ、限りなく間違いはゼロに近いように思えてくる。亜衣は歩きながら、
――おや? 何かがおかしい――
と感じたのだが、感じた時にはすでに、マイナスに打ち消されていて、意識はしても、すぐに否定していた。
亜衣は歩きながら、昨日の彼との話を思い出そうとしていた。かなり突っ込んだような話をしたように思えたが、突っ込みすぎたのか、記憶の奥に封印されそうになっていた。
最後に彼に言われた腕に嵌めた時計を感じると、時計を見ることで、彼に会えるのではないかと思えたのだ。
立ち止まって、じっと時計を見つめていたが、急に目の前に誰かの気配を感じ、思わず顔を上げると、そこには昨日の彼が立っていた。
「ずっと、私のそばにいたの?」
と聞くと、
「ええ、そのための時計ですからね」
と彼は答えた。
「透明人間になっていたの?」
「透明人間にはなっていませんよ。あなたが僕を見えなかっただけです。他の人には僕の存在は分かっていたようですからね」
彼の存在を特別だと思っているのは、亜衣だけであった。他の人に彼が見えていようが見えていなかろうが、誰が彼を気にしようというのだろうか。
「あなたは、透明人間にはなれないんですか?」
「ええ、僕はなれません。でも、人の意識から気配を消すことはできます。つまりは透明人間にならなくとも、気付かれないようにすることはできます。知っている人が目の前にいても、誰にも気付かれないような人って、この世界にでも結構たくさんいるものなんですよ」
亜衣には、ピンと来なかった。
彼は続ける。
「それはそうでしょうね。亜衣さんは、自分は他の人とは違うって思っているでしょう? それは裏を返せば、それだけ自己顕示欲が強いということにもなるんですよ。そんな人に対して、気配を消そうとするのは無意味なことで、自分の見えているものに対しての信憑性は限りなく高いものがあるんです。つまり、興味のあるものに対しての関心は半端ではなく、興味のないものに対してはとことん関心がない自己中心的で、自己愛に溢れているように見られますよね」
「そうかも知れません」
かなりの皮肉を言われて、普段であれば、顔から火が出るほど恥ずかしい思いをしているはずなのに、彼から言われると、それほどでもない。考えてみれば、人から皮肉を言われてかなりの恥ずかしい思いをしてしまうという感情から、
――人と同じでは嫌だ――
という感覚が強くなっていったと言えるだろう。
亜衣は、彼が自分の前に現われてくれたことで、安心がよみがえってきた。このまま今日彼に会えなければ、日付が変わると、また同じ日を繰り返してしまうのではないかと考えていたからだ。
新しい日を迎えるには、彼と会えなければいけない。
それは、自分がいくら望んでもできることではない。この世にはできることとできないことの二つしかないと考えるなら、
――絶対にできないことだ――
と、感じるに違いなかった。
そう思って諦めの境地に達しようとしていた時、彼が現れてくれた。それも、
――現われてほしい――
と願ったその瞬間だったから、嬉しさも倍増だった。
しかし、逆にそう思ったから、彼の気配を感じることができたのかも知れない。彼が急に亜衣に対して気配を現したと考えるよりも、亜衣の方が、精神的に余裕ができたからなのか、それとも、究極の思いに近づいたからなのか、彼の存在に気付いたという方がむしろ簡単に理解できることだった。
だが、どうも彼の表情は昨日とは違っていた。
まるで苦虫を噛み潰したような表情で、複雑な感じを受けたのだ。
その表情に感じた最初の感情は、哀れみだった。
「どうして、そんな表情をするの?」
亜衣は単刀直入に聞いたが、その表情について言及しなかった。
「そんな表情とは?」
彼が聴き返してきたが、それが彼の本心からなのか、それとも、分かっていて敢えて聞きなおしてきたのか、亜衣には分からなかった。
亜衣は、彼がわざとしているものだと感じ、どちらかというと皮肉を込めるような感情を込めるように、
「哀れみを浮かべているんですけど」
と、答えた。
「哀れみ……」
彼は一人ごちた。
亜衣に対して聞き返すわけではなく、自分に再度言い聞かせるかのように、亜衣を無視するかのように呟いた。
「ええ、哀れみです。あなたは私に同情しているんですか? 私の将来について何かを知っているように思えてならないんですが……」
もし、彼が自分の将来について何かを知っているとしても、それを聞くことはタブーである。もし、聞いてしまって未来を知ってしまうのは、パラドックスの観点からも、許されることではないと思えた。
しかも、自分のことで、明らかによくないことのように感じられることを、今知るのは危険が伴う。知ってしまうと、これからの人生を今までどおりに生きていけるかどうか分からないからだ。
作品名:「透明人間」と「一日完結型人間」 作家名:森本晃次