「透明人間」と「一日完結型人間」
亜衣は、昨日の記憶をほとんど覚えていないはずだったが、断片的に思い出すことができた。シーソーに乗った男性が相手は誰もいないのに、自分が上になっているという物理的な矛盾や、自分に関係がある人だということだけは覚えていたのだ。
そして、彼が何かを話したその時に、亜衣も自分の過去をいろいろと思い起こしていたかのような記憶があったのだ。
亜衣は今朝のことを思い出していた。
もう一人の自分と会話をしていたのを覚えている。
その時に、同じ日を繰り返しているという感覚になった。テレビのニュースで数日前の話をしていたことが気になっていた。しかし、実際には夢を見ていたのか、もう一人の自分と話をしたという感覚の副作用なのか、過去を繰り返すという感情を、「自己暗示」として今は理解していた。
そうとしか考えられない。もう一人の自分が問いかけてきたという意識も、「自己暗示」だと思えば自分を納得させられる。
――この時の「自分」というのは、果たしてどの自分なんだろうか?
亜衣は考えた。
今、こうやって考えている自分ではないことは確かだ。普段から何かを判断しなければいけない時、時々、
「自分を納得させる」
という言葉で、判断を誘発させるが、その時の自分というのが一体どの自分なのか、今までさほど気にしたことはなかった。
自分の中にもう一人、性格の違う自分がいるのではないかという思いは、少なからず以前から持っていた。
自分が二重人格なのかどうなのか、そのことで悩んだことはあまりなかった。
「人間なんて、誰でも裏表を持っているものなんじゃないかしら?」
以前から、そんな思いをいつもその時々の数少ない友達には話していた。
亜衣は、あまり人と関わりたくないと考えるのは、自分が普通の人と考え方が違っているからで、それを悪いことだとは思っていないからだった。
「何でもこなせるような平均的な人になってくれればいい」
母親はそんなことを話していたのだが、亜衣にはその考えが分からなかった。
確かに平均的な人は無難に何でもこなせるので、人からは好かれるだろうが、一芸に秀でた人の方が、熱烈に好かれるのではないかと考えている亜衣は、
――平均的な人間なんて、面白くも何ともない――
と心の底で思っていた。
もちろん、母親に向かって、そのことを口にするつもりはない。自分のためを思って言ってくれていると思うと、余計なことはいえないのだ。
その頃からだろうか、
――私の中には、もう一人自分がいて、私はその人のようになりたいという矛盾している意識を持つようになった――
と感じていた。
亜衣にとって、もう一人の自分を意識するということは、普段から自分に自信が持てない自分を助けてくれているように思えた。
亜衣は時々、
――まわりの皆は私よりも優れているんだわ――
と思い、また時々、
――私ほど、他の人にはないものを持っている人はいない――
と感じていた。
それは、矛盾しているということではない。人に適わないことはたくさんあるけど、他の人にはないと思うこともたくさんある。それが他の人よりも優れていることだとは恐れ多くて口にはできないけど、心の中ではそう思っていてもいいのではないかと思っているからだった。
――私は、本当にこの世界の住人なんだろうか?
と、中学生の頃に考えたことがあった。
自分にしか見えない透明人間がいて、その人と自分の意識の外で交流しているような気がしていた時期があった。
ただ、当時の亜衣には、その人が透明人間であるという意識はなかった。
つまりは、他の人にもその人の姿かたちが見えているものだと思っていたのだ。
亜衣がその人の存在を意識したのは、好きになった男性が現れてからだった。
亜衣は、その人に告白はおろか、話をするのもおこがましいと思っていた。その頃にはすでに、
――人と関わりたくない――
という思いが亜衣の中にあり、その感情が、人を好きになることさえも否定しようとしていたのだ。
――これが思春期なんだ――
と、自分にも他の人と同じように思春期が訪れた。そのことが、亜衣を矛盾という感情の中に押し込んでしまい、一緒に訪れている思春期を惑わせてしまった。そのせいもあってか、自分の中にもう一人の自分がいるという意識を芽生えさせ、自分を納得させることを最優先に考えるようになったのだ。
思春期というものと、もう一人の自分の発見というものが同じ時期にやってきたのは、自分が、
――人と関わりたくない――
と考えるようになった要因でもあった。
そこに存在しているのは「矛盾」であって、矛盾を解決するには、
――自分を納得させること――
という発想が不可欠だったのだ。
それが今の亜衣の性格を形成している。矛盾を解決させるために自分を納得させようとするには、うまく行かないこともあっただろう。
しかし、今までにうまく行かなかったという記憶はない。何度も納得させることがあったはずなのに、一度もうまく行かなかったことがないというのは、それ自体が矛盾のような気もしてきた。
――何かの見えない力が働いているのかも知れない――
それこそ、
――自分にしか見えない透明人間――
の正体なのかも知れない。
それにじても、自分にしか見えない透明人間という発想がいつから生まれたのか分からない。
最初から透明人間だと分かっていれば、考え方も違っていた。最初は、あくまでも自分の同志のような人であり、考え方を一つにした「普通の人間」のはずだった。
相手を特別な人間だと思ってしまうと、自分から萎縮してしまったり、
――自分よりも優れていても仕方がない――
と、違った意味で、自分を納得させようとしてしまうだろう。
それはネガティブな考え方であり、透明人間というものをある意味肯定してしまう自分を、どのように納得させられるのか、それこどが矛盾であろう。
人と関わりたくないという思いの奥底に、
――矛盾を感じるなら、一人で感じたい――
という感覚があり、人と共有できるものではないと思っている。
人は誰でも矛盾を感じているのだろうが、その矛盾に共通性を感じてしまうと、亜衣は自分を納得させることができなくなると思っていた。
――そんな矛盾を感じているから、昨日、あんな夢を見たのかしら?
そこにあるはずの公園がない。そんな発想は、まったくなかった亜衣には、今までのことが夢以外であるはずはないと思えた。そしてそんな夢を見る根拠として自分を納得させられるのは、普段から感じている矛盾でしかないと思えたのだ。
その日、亜衣がどうやって家まで辿りついたのか、ハッキリと覚えていない。気がつけば真夜中になっていて、しっかりパジャマに着替えて眠っていたのだ。
――やっぱり夢だったんだ――
と亜衣は感じたが、それではどこからどこまでが夢だったのかという大きな疑問が残った。
――どこまでって、今まででしょう――
と、自分に問うてみたが、答えは返ってこない。同調しているならば、すぐに返答があるはずなのに、返答がないということは、自分が怪しいと思っていることを理解しているのだろう。
作品名:「透明人間」と「一日完結型人間」 作家名:森本晃次