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「透明人間」と「一日完結型人間」

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 あれは確かに一週間前だった。あの時も同じように朝食を卵料理抜きで作った。そして、どうして卵料理を作らなかったのかというと、
――何か、気になる夢を見たからだった――
 と感じたからだ。
 その時の夢は確か、夢の中に誰かが出てきて、何かを忠告していったかのように思えた。出てきた誰かというのに、違和感はなかった。会いたいと思っていた人だったのかも知れない。目が覚めてからそれが誰だったのかどうしても思い出せなかったが、その日のどこかのタイミングで、
「ああ、夢に出てきたのは、確か……」
 と、誰だったのか思い出していたのだ。
 亜衣はその時の記憶は今はなくなっていた。なぜなら、今日今から起こることは一週間前と同じことであり、そのことを自分では分かっていないからだった。だから、自分の意識が一週間前に戻っているのに、違和感を感じないのはそれが理由だったのだ。
 しかし、その翌日からの記憶は残っていた。その日の記憶かけが飛んでしまっているので、その日に起こることに何か違和感があるはずである。意識の中に矛盾が生まれてくるというのか、矛盾はずっと残っていた。それでも慣れというのは恐ろしいもの。矛盾であっても、違和感に繋がらないようになるのは、どこかで自分を納得させることができたからであろうか。
 亜衣は、その日一日をあっという間に過ごしていた。
――こんなに早い一日なんて――
 と感じたのは、午後六時の退社時だった。
 このまま家に帰ってもよかったのだが、あまりにもあっという間に過ぎてしまったと思っている一日なので、このまま家に帰ると寂しさしか残らないと思った。その思いが懸念となり、気が付けば、たまに行くバーに足が向いていた。
 その店に行く時は、いつもフラリと出かけていた。
――今日は、あの店に行くぞ――
 と、最初から計画して出かけることはほとんどなかった。
――気が付けば店の扉を開けていた――
 という感覚がほとんどで、店のマスターも、
「いらっしゃい」
 と笑顔で言った後、
「今日もフラリとやってきたのかい?」
 と、茶化すように言い、
「ええ」
 と、苦笑いをする亜衣の顔を満面の笑みで眺めていた。
 どうやらマスターは亜衣の苦笑した顔を見るのが好きなようだ。
 いつもの指定席であるカウンターの一番奥の席に腰を掛けた。ここからなら店が一望できるからである。しかし、そうは思っていても、一望する時に何かを考えているというわけではなく、いつもボンヤリとしている時に見せ全体を見渡していたのだ。
「今日も私だけなのね」
 というと、
「亜衣ちゃんがいる間はきっと一人だけだよ」
 今まで不思議なことに、亜衣が一番客だった時は、亜衣が帰るまで、誰も店に来ることはなかった。亜衣が帰ってから少ししてから他の客が来ることから、
「示し合わせているんじゃないの?」
 と言われたことがあったが、決してそんなことはなかったのだ。
 もちろん、マスターも分かって言っていることなので、やはり苦笑する亜衣を見たいという思いの強さを、亜衣も嫌でも感じさせられた。
 しかし、嫌な気がしているわけではない。むしろ、そんな思いが些細な悩みやストレスを解消させてくれる。そんな思いを知ってか知らずか、マスターはあまり余計なことを口にはしなかった。
 ただ、マスターは相当に博学である。特に雑学に掛けては、亜衣が今まで知っている人の誰よりも詳しく、
――さすが、バーを経営しているだけのことはあるわ――
 と関心させられたものだ。
 亜衣は、
「いつもの」
 と注文すると、マスターは何も言わずに見事な手さばきでカクテルを作ってくれる。
 亜衣は、左腕を気にしながら、ボーっとしていた。
「いい時計だね」
 と、マスターに声を掛けられ、ハッとしたくらいだった。
「僕は、この間骨董品屋さんで面白いものを見つけたんだ。それは天秤の形をしたオルゴールだったんだけどね」
「天秤……、ですか?」
「ええ、オルゴールの蓋の上にローマ神話に出てくるような神が乗っていて、その神が天秤を持っているんだよ」
「それは面白いですね」
「しかも天秤は動くようになっていて、左右に何かを載せて量ることもできるんだ。でも不思議なことに、片方にしか何かを乗せなかった時でも、反対側が下になることがあるんだよ。いつもというわけではないんだけど、まるで手品のようでしょう?」
「見せてほしいです」
「それが、僕だけが見ている時にしかできないことのようなんだ。だから、それから他の人に話すとバカにされそうなんで、誰にも話をしていないんだけどね。でも、亜衣ちゃんのその時計を見ると、なぜかその話をしてみたくなったんだよ。不思議な感覚なんだけどね」
 と言って、今度はマスターが苦笑いをした。
「そうなんですか」
 と、亜衣はあまり驚かなかったのを見て拍子抜けしたはずなのに、マスターは亜衣の顔をずっと凝視している。
 その様子に気付いてはいたが、言葉を掛けるには忍びないと思っていた亜衣だったが、さすがに悪戯に時間だけが過ぎていくのを感じ、
「どうしたんですか?」
 と、根負けしたように、マスターに聞いた。
「いえね。亜衣ちゃんがあまりにもリアクションしてくれないので、亜衣ちゃんも同じような感覚になったことがあったのかと思ってね」
 と言われて、
「天秤ではないんですけど、私はシーソーで似たようなものを見たことがあるような気がするんです」
「それは遠い過去の記憶なの?」
「そうじゃなくて、近い記憶なんですが、ただ、それが過去だったのかと言われると、不思議と違う気がするんです。未来のことを予見しているようで、予知能力なんてあるはずないのにですね」
 と言って、亜衣は下を向いてしまった。
 マスターの顔を凝視できないという意識と、他の人を意識してしまうと、思い出しかけているシーソーの記憶が、また闇の中に消えていってしまいそうで、それを恐れて下を向いてしまったのだ。
「天秤とシーソーは似ているようだけど、まったく違っているような気がするんだ」
「どうしてですか?」
「シーソーは、それぞれ目方の分からないものを片方ずつに乗せて、単純にどちらが重たいのかを見ることができ、重たい方であっても、足で蹴ることで上に行くことができる。天秤の場合は、計測したい相手を片方に乗せ、片方には分銅を載せていくことで、計測したいものの重量を正確に測ることができるものなんだ。でも、そこに力は発生しないところがシーソーとの違いかな?」
 マスターの分析はなかなかなものだった。亜衣も言われて初めて、
――なるほど――
 と感じたが、それ以上に、自分がシーソーを気にしているのがよく分からなかったのだった。
 亜衣も以前は、シーソーと天秤であれば、天秤の方を気にしていた。
 天秤というと、
「自由、平等を掛けて、裁きのシンボルであると言われるのが印象的ですよね」
 と言っていた人の言葉を思い出す。
 だが、シーソーというと、児童公園にある遊戯としてしかイメージがなく、あまり意識したことがなかったはずなのに、なぜここでシーソーを意識するのか、すぐには自分でも理解できなかった。
「シーソーってタイムマシン?」