「透明人間」と「一日完結型人間」
「いいえ、完全には解消されていません。この問題は永遠に続くものであり、人間にはどうすることもできないものだという学説が生まれ、それにより、少々のリスクが残っても仕方がないという発想が生まれました。怖がってばかりでは先に進めないということですね」
「じゃあ、それは時代のターニングポイントだったわけですね」
「そうだと思います。一つの足枷が外れれば、後は研究もトントン拍子に進んで、開発までにはそれほど時間が掛かりませんでした。タイムマシンもロボットの研究も、ほぼ同じ時期に完成しました」
という話を聞いた亜衣は、
「あなたがいた世界を見てみたいわ」
というと、彼は少し困った顔をして、
「それは止した方がいいかも知れませんね」
「どういうことですか?」
「あなたの世界と僕の世界とでは考え方がまるで違います。僕だってこっちの世界の予備知識はちゃんと身につけているつもりなんですが、どうしても納得のいかない感情もないわけではない」
「それはどういうところなんですか?」
「うまくは言えませんが、他人を思いやるというところに根本的な違いがあります。僕はどちらかというと亜衣さんの気持ちに近いところがあります。それは僕たちのいた世界の人は当然だと思うようなことなんでしょうね」
「じゃあ、私はあなたの世界では普通の考え方だってことなのかしら?」
「そうですね。少なくとも、こっちの世界の人よりは、受け入れやすいのではないかと思います」
と言われて、複雑な思いだった。
確かに人と関わりたくないという思いは、この世界でのことであって、別に世界が存在していて、その世界であれば、
――自分の考え方が受け入れられて、人と関わることも悪くはないと思えるかも知れない――
と考えたことがあった。
それがまさか、本当のことだとは思っていなかったので、嬉しい気持ちもあるが、どこか怖い気持ちもある。自分の中に予知能力のような力が備わっているのではないかという思いがあるのも事実で、本当であれば、そんな不要な力が備わっていることに恐怖を感じるはずだった。
しかし、彼がさっき言ったとおり、特殊能力は誰もが持っていて、それを使いこなせる人がいないだけだという発想からすれば、別に怖いことではない。怖いと思うのは、むしろ、その力自体というよりも、そのことを知られて、まわりに利用される危険性が怖いのだ。
――私にとって、無用の力を利用しようとするのは、悪用される可能性が十分だからではないか――
と思う自体に恐怖を感じるのだ。
「あなたはどうして、私に透明人間の話をするんですか?」
彼の登場は、透明人間を暗示させるものだった。シーソーの相手に誰もいないのに、彼の方が宙に浮いている。誰か透明人間が目の前にいて、その人がシーソーの片方に乗っていると考える方が、亜衣にはよほど信憑性があった。
「亜衣さんに、この世界で、透明人間としての力を発揮してもらいたいと思ってですね」
と、彼は不思議なことを口にした。
「私が透明人間になってどうするというんですか? 誰かに悪戯でもするというんですか?」
まさかそんな子供じみたことでの話でもあるまい。彼の真剣な表情は、笑って済ませられるものではないと感じた。
「まさか、そんなことは言いませんよ。透明人間になることで、他人の秘密を容易に掴むことができるでしょう?」
「人の秘密を握ってどうするというんですか? 脅迫でもするんですか?」
いちいち亜衣は挑発的な言い方をした。そうでもしないと、彼の本心が掴めないと思ったからだ。
「すべての人の秘密を握っても、それで何かをしようというわけではないんです。ある人の秘密を握るために、まずは透明人間になって、人の秘密を握る練習が必要なんです」
「じゃあ、ターゲットがいるというわけですか?」
亜衣は、恐怖もあったが、不思議とそれ以上に好奇心が強くなっていた。相手が誰であろうと、透明人間になることへの好奇心は、今までの自分にはありえないことだった。
何しろ、
――人と関わりたくない――
と思っていた自分である。
だが、考えてみれば、人と関わりたくないというのは、あくまでも自分だけの世界をつくり、そこに入り込んで、他の人に立ち入られたくないという思いからである。
だが、透明人間になって他人に立ち入るということは、自分への思いと反していることであり、矛盾していることである。
彼と話をしてきて、矛盾というものに対して、感覚がマヒしてきているのを感じていた。ロボットの話にしても、タイムマシンの話にしても、不老不死の話にしてもそうである。気持ちの中にある矛盾を、彼と話をすることで正当化し、信憑性を与えている。違和感が違和感でなくなってくると、マヒした感覚が新鮮なものになる。元々彼の存在自体が、信じられるものでもないはずだった。
「あなたに関係のある」
と最初に言われたことで、その時点から、彼の術中に嵌ってしまったように思えたのだ。
それはそれでいいような気がした。彼が亜衣に透明人間の話をして、人の秘密を握ることを話しているのは、傍から見ればっ強制しているようである。
強制していないまでも、洗脳することで、相手を操縦しているように感じ、まるで新興宗教のようなマインドコントロールを思い起こさせる。
だが、亜衣にとって、今まで人と関わってこなかったことで自分の中に出来ている性格は、彼の話を容易に受け止めている。
それはまるで大きな手のひらで包み込んでいるように見え、手のひらの上で踊らされている孫悟空を見るお釈迦様のような心境になっていた。
ただ、気になるのはやはり彼の真意であった。何を考えてこの世界で亜衣に透明人間をさせるのだろう。自分にその力があるのだから、自分ですればいいようなものだ。
そもそも、どうして亜衣なのかというのも分からない。
要するに分からないことだらけなのだ。
亜衣が考え込んでいると、
「ターゲットに関しては、その正体が誰なのか、もう少し答えを待ってほしい」
と彼は言った。
本当なら、そんな曖昧なことで引き受けることなどできるはずもないと、瞬殺で断わってもいいはずなのに、亜衣にはどうしてもできなかった。断わろうという気持ちの方が大きいのだが、なぜか断わることができない。
――何も分からないまま、簡単に断わることはできない――
という考えが頭の中にあるからだった。
「亜衣さんは、どうして自分が選ばれたのかということが不思議なんでしょう?」
と、彼は聞いてきた。
「ええ、そのこともそうなんですが、あまりにも分からないことだらけすぎて、本当は断わろうという意識が強いのに、断わることができない自分がいるんです。何とも気持ち悪い感覚ですね」
と亜衣が、困惑の表情をすると、彼も少し苦笑いをしながら、
「あなたには悪いと思ってはいますが、あなたのその気持ちがあるので、僕はあなたを選んだのです。正直にいうと、もう少し時代がずれていれば、あなたではなく、他の人に頼むことになるんですが、僕はあなたにこの役をお願いしたいんです。だから、僕はこの世界のこの時代にやってきて、あなたに遭遇したんです」
作品名:「透明人間」と「一日完結型人間」 作家名:森本晃次