「透明人間」と「一日完結型人間」
確かに亜衣は彼の子供の頃のことを知らないから何とも言えないのだが、彼の今の素直さは、子供の頃に持っていたと思われる素直さと変わりがないように思える。だから、彼には、
――子供のような素直さ――
というものは存在しないのだ。
――これが彼の存在していた世界の人間性なんだろうか?
亜衣はいろいろ考えてみたが、そんな亜衣の気持ちを知ってか知らずか、彼は亜衣が頭の中を整理しているのを黙って見ていた。
さすがに亜衣も、整理がついてはいなかったが、何かを答えなければいけないと思い、
「透明人間になってみたいって思ったのは、子供の頃が最後でした」
この答えにウソはなかった。
子供の頃には、自分が透明人間になって、何をしたいかと聞かれて、別に理由はないとしか答えていなかったが、本当は、一つだけしてみたいことがあった。きっとそれは誰もが考えることではないだろう。もちろん、考える人もいたかも知れないが、まず最初に感じることではないだろう。
「透明人間になれるとしたら。何をしたい?」
と、小学生の時、授業中に担任の先生から言われたことがあり、他のクラスメイトは、
「スカートめくりがしたい」
などと言ったふとときな答えをする男子もいたが、要するに目の前の欲望を叶えたいというのが一番の意見だった。
先生も苦笑しながらも、みんなの答えに満足そうだったが、亜衣は少し違ったことを考えていた。
「私は、鏡を見てみたい」
と答えたのだが、最初は皆、笑っていた。
「鏡を見たって、誰も映ってなんかいないさ」
とクラスメイトから言われたが、
「本当にそうかしら?」
と、担任の先生がそういうと、皆黙り込んでしまい、考え込んでいたようだ。
亜衣もそのまま考え込んでしまい、クラス全体が重い雰囲気に包まれたが、すぐに先生が、
「それも一つの考えよ」
と、自分のさっきの言葉を和らげるような発言をしたので、場の雰囲気は元に戻った。しかし、その時先生が亜衣の顔を凝視していて、視線を合わせることができなかったのを亜衣は覚えていたのだ。
透明人間になってみたいとは思っていなかったが、自分の存在を消してしまいたいた思うことはしょっちゅうだった。それは、目の前にいても、誰にも気付かれないような影の薄いと呼ばれるような人間、たとえば、目の前にあっても、誰にも気にされることのない道端に落ちている石だったりする。
そんな思いは誰にも言えない。もし言ったとすれば、
「何て寂しいことを言うの。そんなネガティブでは何もできないわよ」
と言われることだろう。
亜衣は、他の人と同じでは嫌だと思っているくせに、人の言葉には敏感だった。だから人との接触を断ち、自分ひとりの考えに固執していた。数年前までは、人と関わるのが嫌ではあったが、自分ひとりの考えに固執するようなことはなかった。就職してから変わったに違いない。
自分の性格の変化がいつ起こったのか、自分でハッキリと把握しているわけではない。把握していないだけに、
――いつ元に戻るかも知れない――
という思いが頭をよぎり、元に戻ることも悪いことではないと思っている。
――元に戻ろうが、今のままであろうが、どちらでもいい――
と亜衣は思っているが、別に気持ちに余裕があるからではない。先のことは自分では分からないという思いがあるからだ。今で精一杯なので、先のことは分からないという思いが強く、
「将来のことも視野に入れて考えていかなければ成長はないわ」
と言っている、自称ポジティブな性格の人の言葉に一切の信憑性を感じることができなかった。
その言葉のどこに根拠があるというのか、亜衣はそういう当たり前のことをドヤ顔で説教するような人が一番嫌いだった。
「透明人間か。透明人間になれば、一切の差別も何もないわね」
亜衣は、何を思ったか、頭に思い浮かんだことをボソッと呟いた。
それを聞いていた彼は、
「そうですね。それが亜衣さんの真理なのかも知れませんね。普段から差別的な考えを持っていて、だからこそ、まわりと関わりたくないという思いを抱いている亜衣さんらしい発想ですね」
と、彼は言った。
褒められているのか、皮肉を言われているのか分からなかった。
「私はこういう人間だから」
と、亜衣が言うと、
「自分の心の奥底を覗く勇気のある人は、そんなにいないと思います。僕が思うに、心の奥底に潜む感情は、ほとんどの人は表に出したくないから奥底に隠しているんですよ。でも、それが本心であることに違いはない。だから、余計に人には知られたくない。その思いが当たり前のことをドヤ顔で言う人が多いんですよ。自分の根底にあるものから、なるべく人の目を逸らしたいという感情の裏返しなんでしょうね」
彼の言葉には、いちいち救われた気がするのは、気のせいであろうか。亜衣にとって人に知られたくないことでも彼になら知られてもいいと思うようになっていた。
もっとも、彼はすでにそんなことは分かっているのかも知れない。亜衣がその時々で考えていることも、すべて看破されているような気がするくらいだ。
「透明人間になれば、まず何をしたいのかを考えた時、その人の本性が分かると言われていたことがありました。僕たちの世界でも、最初は透明人間になるという研究は、どこもしていなかったんです。何と言っても、犯罪に直接関わってきそうな研究ですからね」
「それは分かります。私たちの世界でも、透明人間の研究をしている人なんて聞いたことがありませんからね」
「でも、ロボットや、タイムマシンの研究は行われていた。そのどちらも透明人間の研究に比べてもそのリスクは半端ではないほどに大きいのに、研究だけは行われていたんですよ。それはきっと、ロボットやタイムマシンの研究が人類に及ぼす効果を考えた時の大きさと、そのリスクがどのようなものかというのを分かっているからではないかと思っています。何が怖いと言って、リスクの面がまったく見えていないことが怖いですよね。例えば薬にしても、副作用という大きな問題があります。不治の病の特効薬はいつの時代でも研究されていますが、なかなか発表されないのは、その副作用の問題があるからではないんでしょうか?」
という彼の話に、
「それだけではないと思います。薬の場合はもっと大きな問題を孕んでいます。それは矛盾ということだと思うんですが、太古の昔から皆が捜し求めているものとして、不老不死があります。不老不死の薬を開発できれば、本当にそれはすごいことなんでしょうが、でも、そのために、薬や医者はいらなくなり、何よりも人が死ななくなることで、自然界の摂理は壊れてしまいます。それは恐ろしいことで、究極の矛盾になるんですよね。でも、昔から不老不死を求めている話というのは、そのほとんどは人間のエゴであり、自分さえよければいいという発想に基づいているんだと思います」
と亜衣は答えた。
「ロボットの研究もタイムマシンの研究も、同じことだったんですよ。パラドックスや矛盾をいかに解決するかが一番のカギだからですね」
「じゃあ、あなたのいる世界では、その部分は解消されたんですか?」
と亜衣が聞くと、
作品名:「透明人間」と「一日完結型人間」 作家名:森本晃次