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短編集17(過去作品)

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 水沼さんは仕事を覚えるのは苦手な方ではなかった。一日目、二日目と次第に仕事にも慣れて来たようだ。しかし、
――どこかで会ったことがあるような気がする――
 と感じるようになったのは、彼女が仕事に慣れてくるのに比例しているように感じられた。ある日の夕方、いつものように仕事が終わり、会社を出てからボンヤリと駅に向っている時だった。
 仕事中と自分の表情が違うだろうということは分かっているつもりだった。会社ではいろいろなところに気がついて、痒いところに手が届くタイプの人間だと思っているが、仕事を離れ、一歩会社を出るとまるで気が抜けたようになってしまう。特に夕方など一気に睡魔が襲ってくることなどしょっちゅうで、そのたびに時間の感覚が麻痺してしまう。
――駅までどうやって辿りついたんだろう?
 ということもあるくらいで、たまに、駅まで行く途中にある児童公園のベンチで座っていることに、ふっと気付くこともある。
 ビルの谷間を吹きぬける風、一塵の風というにはあまりにも強い風を感じながら、乱れる髪を無意識に気にしている。西日がビルの窓に反射して、公園の一角だけが眩しくなっている時がある。そんな時は明るい方をあまり見ないようにしているつもりだが、気がつけば気になってしまっていて、暗い部分が余計に暗く感じる。サッカーをしている子供たちのボールが暗い部分に入った時に一瞬消えたように見えるのも不思議な感覚だった。
 ベンチに座って、これといって何をするというわけでもなく、何かを考えているのだが、それが何なのか分からない。
――何かを考えていた――
 という感覚だけが、後から思い出されるのだ。
 特に最近そんな日が多い。公園で遊ぶ子供たち、仕事が終わって駅へと急ぐサラリーマンやOLを見ていると、
「どうしてあんなに急いでいるんだろう?」
 と思わず呟いている。そこには、
――昔は私も我れ先にと急いでいたものだった――
 という気持ちがあったに違いない。
 そう、初めて風俗に行くまではそうだったかも知れない。それまでは、電車がホームに着いてから、改札口まで一番で行かなければ気がすまなかった。最初は、人の群れに呑まれたくないというだけの考えだったはずなのだが、人の群れに呑まれていると、
――どうして必要以上にこんなにゆっくり歩いているんだ――
 と、じれったくなっていた。それは元々貧乏性なのか、こんな時にだけ時間がもったいないと感じているかのどちらかなのかも知れない。仕事から離れた自分がどれだけ時間を無駄に使っているのか、考えたことなどなかった頃からであった。
 その日も私は気付いたら公園のベンチにいた。同じようにせかせか駅へと急ぐ人の群れを見ながら、自分だけの時間を止まって感じている……。
「右田さん」
 ふいに後ろから声を掛けられ振り向くと、そこには髪の長い一人の女性が立っていた。西日の反射した明るいところを見ていたために振り返ったその時に見えた顔はハッキリとしない。だが、掛けられたその声には覚えがある。思わずその人の名を呼ぼうとしてしまって、あわててその名前を飲み込んだ。
――まい――
 心の中で叫ぶにようやく留まったが、口元だけは動いていたかも知れない。慣れて来た目で見ると口元が淫靡に歪んだように見えたが、気のせいだろうか?
 しかしまいが私の名前を知っているはずがない。もう会えないと思っていたまいが私の前にいるなど信じられなかったが、次第にもう一人違う人を思い出していたという気持ちも否めない。
「私ですよ」
 やはり淫靡に見える。
「水沼くん?」
 そう、彼女はパートで入ってきた水沼さんだった。ここから私は自分のまわりの空気が重たくなったのを感じた。
「まいです」
 彼女が私にそう言ったからだ。やはり唇が淫靡に歪んで見える。
「実は私、あなたにお会いしたかったんですのよ。偶然とはいえ、あなたの会社で働けて幸運ですわ」
「どうして僕をそんなに?」
「なぜなのかしら? 私にもよくは分からないんですが、ゆっくりものを考えられるような気がするんです。あなたといると、空気が重いような……。今までにこんなことはありませんでした」
 まるで告白されているかのようである。こんな気持ちは久しくなかった。以前であれば素直に受け入れられる気持ちがあるのだろうが、今はなぜか打算的に考えている自分がいるのも事実である。
――恋に対して臆病になったのかな?
 そう考えたが、まいの顔を見ているとゆっくりと沈んでいきそうになる自分を感じる。
それは初めて会った時に宙に浮きそうな感覚と逆であった。風俗の女性らしからぬ愛想を感じた私は、その時からまいの虜になっていたのかも知れない。
 私には自分のこれからの人生が見えるようだ。まいに出会った時に感じた、
――以前からずっと知り合いだったような気がする――
 という思いが、今となって分かってきたようだった。
 元々、人の顔を覚えるのが苦手な私は、相手の顔を覚えたい時に必要以上にきつい目つきをしていることだろう。まいと初めて出会った時はそんなことはなかった。しかしたったの数十分の出来事であったが、顔を覚えていたのだろう。輪郭がシルエットとなって浮かび上がった時、顔の表情までハッキリと思い出せたような気がした。それが出掛かっていたのを飲み込んだその時の言葉である。
 私の中で、その時から時間が止まってしまった。すべての時間が止まったわけではなく、まいとの時間が止まってしまっていた。
 その日、それから二人がどうなったか、私に記憶はない。しかし、まいの顔を見ただけで目の前に浮かんでくる黒々とした恥毛が、大切な部分を被い被せ、私に分からないようにしている。まるでオブラートに包まれたような淫靡な部分に多少なりとも湿った感じを抱くのは、私がまいの身体を知ってしまったからだろう。
 その瞬間から止まってしまった時間。私にとってその時間がどのようなものか、二人にとってどのようなものなのか、まいにとってどうなのか、どれか一つが分かれば、きっとすべてが見えてくるはずである。
 そんな時、ふと重たくなったような空気を感じたのだ。それは目の前を全体的にグレーが覆っているような不思議な感覚だった。初めての感覚ではない。だが、次第に麻痺してくる感覚に心地よさを感じているのが自分でも不思議でならなかった。

 ピンク色のエプロンをかけたまいが、私の前に背中を向けて立っている。忙しそうにキッチンで立ち回っていて、その背中に感じる躍動感は今までで一番自然に感じる瞬間だった。
 美味しそうなシチューの香りが部屋の中に立ち込めている。きっとまいの得意料理なのだろう。
――冬に食べるビーフシチューは最高だ――
 と最初に出会った時に話したような気になっているのは、記憶が交錯しているからだろうか?
 よくデートで行った公園を思い出す。そこは大きな池があり、そのほとりをよく散歩したものだ。
 ところどころに置かれているベンチに腰をかけ、水面を見ながら話をするだけで、時間を忘れてしまうことも多かった。話の内容を思い出している時に目を瞑るといつも浮かんでくるのが、公園の池のほとりからの風景であった。
作品名:短編集17(過去作品) 作家名:森本晃次