短編集17(過去作品)
砂紋
砂紋
皆さんは空気の重さというものを感じたことがありますか?
本当の空気という意味ではなく、自分のまわりにある雰囲気だったり、緊張感がもたらす空気という意味です。人それぞれに悩みもあれば欲求もあるでしょう。そんな時に感じる節目節目にふと空気を感じることがあるのです。それはまるで水の中で感じる水圧のようであり、表面は激しく打ちつけられたとしても、落ちていくにつれ、ゆっくりと包み込んでくれるような重たさ……。
これは私だけに限ったことではないと思いますが、皆さんが感じるのは一体どんな時なのでしょう。私の場合を少し話してみることにします。
私は学生時代から躁鬱症だと思ってきた。高校時代まではあまり人と話すこともなく、どちらかというと一人でいるのが好きな私だったが、大学に入ると急に人懐こくなり、自分から話し掛けることが多くなった。それは男性にでも女性にでも同じことで、却って自分から殻に閉じこもっている人を見るのが嫌になっていた。
数ヶ月前までは、自分の時間が大切で、人との交わりが億劫なだけと思っていた私がである。
人に話し掛けることで自分の気持ちを解放し、相手にも気持ちを解放させる。それが至福の喜びでもあった。自分を解放することの喜びを知った私は、他の人にも同じ喜びを味わってほしいのだ。中には露骨に私を嫌がる人もいた。しかしそれは数ヶ月前までの自分を見ているようで、我ながら嫌気がさしている。それだけ自分が変わってしまったのだ。
そんな時の私はきっと自分に酔っていたに違いない。少しくらい煙たがられても、おかしなやつだと思われていると感じていても、誰にでも話しかけていった。そんな私にも友達が増えていったことには違いなかったのだから……。
軽い友達も結構いた。学校で挨拶をするだけで友達だと思っている人もいるくらいなので、相手が私のことを友達だと思ってくれていたかも分からない。しかしそれでも私はよかった。高校時代は孤独が好きだった私に、挨拶だけとはいえ、笑顔を向けてくれるのだ。高校時代では考えられなかった。そして私に対して向けられる笑顔を他人に見せつけることで、
「あいつは顔が広いな」
と思わせることができ、それがこの上もない優越感を与えてくれる。
そんな友達関係の中で、軽い友達と、真剣に将来について話ができる友達とに自分としては分類しているつもりだった。本当は相手によって違う顔を持つということは好きではないのだが、それぞれの付き合いの中で仕方のない部分がある。
――相手の気持ちを無視できない――
という気持ちが働くからで、だからこそ数多くの友達とうまくやっていけるのだと思っている。
軽い部類の友達だと思っていたやつに、田代勇作というやつがいた。彼は私から見てとて新鮮だ。とにかくすべてのことに臆することなく話をしてくれ、いつも笑顔である。笑顔ゆえに軽い人間だと思うのだが、その軽さが知らない世界を見せてくれそうで新鮮である。
私の場合、社交的になったのは大学に入ってからで日が浅い。しかし、彼は天性の明るさからか、社交性に違和感は一切ない。きっと子供の頃から皮肉っぽく、
「この子は口から先に生まれてきたんじゃないかしら」
と言われて育ったに違いない。
とにかく笑顔が絶えなくて、彼のまわりには自然に人が増えていた。それはきっと男女分け隔てなく付き合っていたからだろう。男だとどうしても女性には違う目を向けるものだが、彼の場合はあまり変化が見られない。私はきっと露骨に男女で違いがあるだろう。それだけに私に対するまわりの好き嫌いは大きいに違いない。
それについて少し悩む時期があった。女性と友達になってもあまり進展することはなかった。最初はあっさりして見えるのだろうが、そのうち私が真剣になり始めると、相手が警戒してしまうようだ。自分では分かっていないが、視線や態度が露骨になって、
「あなたの視線が怖いの。私はあなたの気持ちに応えることができない」
何度このセリフを聞かされただろうか。
そのことを田代に話した。田代に対して、尊敬できるところがあり、あまり深入りすることもないだろうと思っていたが、やはり女性関係でできた悩みは、田代に相談するのが一番だ。
「お前は最初、サラリとしていて紳士的なんだが、急に真剣になり始めると露骨なところがあるからな」
そういいながらタバコの灰を灰皿に落とす。揺れながら上がっていく煙の行方を目で追いながら、
「そうなんだよ。そこが辛いとこだ」
ぶっきらぼうだが、その言葉に間違いはない。指摘してくれた方が話しやすい時もあるのだ。
「どうだ。授業料だと思って、女性と話をしにいくつもりで俺に付き合わないか?」
大体やつの言いたいことは分かっていた。
「俺はお金ないよ」
「分かっているさ、俺だってそうさ」
そう言いながらやつが連れていってくれるところが風俗であることは分かった。
実は恥ずかしながら、まだ童貞である。そのことは田代にも内緒にしていたが、きっと分かっていることだろう。女の話になるといつも顔を俯き加減にしているが、その実、聞き耳だけは立てていた。そんな私の態度に田代が気づかぬわけがない。
田代という男、彼に人が集まってくる理由に、
――人に対しての細かい心遣い――
が見えるところにもある。心遣いをするためには、一人一人を観察し、さらにはその場の空気全体をしっかり把握していないとできないことだ。それは慣れというのもあるかも知れないが、生まれ持ったものがなければ不可能に思える。そういう意味で彼の人柄は天性のものがあるのかも知れない。
きっと風俗でも彼が行けば新鮮なのだろう。行ったことのない私は、ただ性的処理を行うだけの場所として毛嫌いをしているだけだ。もし誘われたのが田代以外であれば断っていたに違いない。
「任せるよ」
そう言うと先に立って歩き始めた田代の後ろからついていく。普通に商店街を歩きながらでも、他人の目が気になって仕方がない。思わずまわりをキョロキョロしてしまっている自分が情けなく、きっと顔が真っ赤になっていることだろう。それにくらべ堂々と歩いている田代の毅然とした態度は明らかに対照的だ。
空気が重たく感じる。以前にも味わった気がするが、それがいつだったか覚えていない。懐かしさが私を包んだ。
「しっかりしろよ」
田代の背中がそう訴えている。いや、あまりにも卑屈になっている私を嘲笑っているようにさえ感じた。
「私たちは今から風俗へ行きます」
と、さも自分から宣伝しているかのような態度をとっているだろう自分が、嫌で嫌でたまらない。赤くなった顔は風俗に出かけることの恥ずかしさからではなく、オドオドした態度をとってしまう自分に対してのものだった。いくら初めてとはいえ、どんな態度をとっていいか分からない自分が情けない。
後ろを一度も振り返ることのない田代の背中を見ながら、いよいよ風俗店街に入ってきた、昼間から賑やかなネオンサインをちらつかせている街に異様な雰囲気を感じながら着いていく。
作品名:短編集17(過去作品) 作家名:森本晃次