短編集17(過去作品)
「その女性の気持ちも分からなくもないけど、あなたが煮え切らないのはもっといけないわ。あなたにしてみれば最初、相手が別れようと言い出した時に聞き入れず、もう一度元の鞘に収めさせてしまったことで彼女に負い目を感じているんでしょうけど、それは間違いよ。「嫌なものは嫌」、とハッキリ言わなければダメ!」
そう言ってくれたのだ。頭では分かっていたつもりだったが、彼女に言われて初めてスッキリできそうな気がした。そしてあいとのことを精算して、
――彼女とこれからのことを考えよう――
と思ったとしても、それは自然なことだった。
私はあいと最後の話に行ったのだ。そこで行われたことは思い出したくもない。
「君はどうして分かってくれないんだ」
「あなたこそ、どうして私の気持ちが分からないの。元々私が別れようと言ったのを、元の関係に戻してしまったのはあなたじゃないの」
ここまで言われると魔法に掛かったように、従順なあいの表情を見つめたまま、力が抜けていた。当然言い返す力も残っておらず、妖艶な表情を浮かべるあいのなすがままである。
そこから先、私はあいの虜になってしまう。
しかし、その時は違っていた。最後にしようという気持ちが強く、あいを完全に魔性の女として自分の中で位置づけ、何を言われようとも、どんな表情をされようとも常に魔性の女としてしか見ていない私は、あいを突き放した。
しかし、それで引き下がるあいではなかった。そこから先は愛欲にまみれた修羅場と化したのだが、結末は思い出したくもない。
すべてが終わり、私は彼女の元に走った。約束していた夜の公園である。そこのベンチで彼女は待っていてくれるはずだった。初めて二人が出会った場所、それが夕暮れ時の公園だったのだ。
そう、今日の夕方、ベンチで文庫本を読んでいた女性そのものだった。
しかし、彼女は忽然と私の前から姿を消した。親しくなったつもりではいたが、考えてみれば、彼女との接点は最初に会った公園と、よくそこで待ち合わせた後に行く彼女が常連にしていたスナックだけであった。彼女のことをいろいろ知っているつもりになっていたが、結局は何も知らなかったのだ。
――好きになりかかった女性――
好きになったつもりでいたのだが、何も知らないまま姿を消されてしまった。彼女は私にとって幻だったのだろうか? うまくあいと切れることができたのは彼女のおかげ、深みに嵌まる前で確かによかった。あいとあれ以上付き合っていたら私は一体どうなっていただろう?
――彼女は幸運の女神――
そう思って忘れようと努めた。そして永遠に私の前に現われることのない、あいとの衝撃的な別れ、この二つがその時のことを封印させる原因になったに違いない。
――やはり虫の知らせというのはあるんだな――
今、目の前にいるまどかが思い出させてくれた幸運の女神、それはきっとまどかのことなのだ。顔を忘れかけていたのだが、完全に思い出そうとしている。至福の喜びがこの後待っているに違いない。
「さあ、どうぞ、乾杯しましょう」
お互いに最高の笑顔でグラスを重ねる、美酒を私が一気に飲み干すのをニコニコしながら見ていたまどかの表情が妖艶に変わった。いや、妖艶というよりも完全に違う女に変わってしまったかのように見える。
――あい――
そう感じることが果たしてできたのだろうか? 舌先に感じた痺れが全身を襲う……。
「この男もバカね。私を好きになったつもりでいるなんて。でも、あいには私も困っていたからこいつが始末してくれて助かったわ。まぁ、後始末を私がしたなんてこの男は知らないだろうけどね。私とこの男の接点は何もない。ふふふ、より完全犯罪に近づいたわ。きっとこの男こそ私にとっての幸運の神なのかも知れないわね。偶然とは言え、私の前にまた現われたのだから……」
ゆっくりと呟いたまどかは、
「ありがとう、ゆっくりおやすみ」
重荷である私が軽くなった瞬間だった。
大きな水しぶきが一瞬上がったかと思うと、後は静寂に戻った夜の岸壁に一人、女が怪しい笑みを浮かべながら立っていた……。
( 完 )
作品名:短編集17(過去作品) 作家名:森本晃次