短編集17(過去作品)
そんなことを感じていると気がつけば店に近づいていた。
木でできた重たい扉を開けると、いきなりカウンターの中にいるまどかと目が合ってしまった。何か運命的なものを感じたとすればその時が最初であったろう。
「いらっしゃいませ」
「こんばんは、また寄せてもらったよ」
そう言うとまどかは、さも嬉しそうな顔になり、
「ええ、お待ちしていましたわ。この間は皆さんご一緒だったので、あまりお話もできませんでしたわね」
結構話をしたような気がしていたつもりだったが、まどかの口ぶりでは、まだまだしたい話がいっぱいあるかのようだった。
「そうだね、あっという間だったからね」
そう言ってカウンターに腰掛けると誰もいない店内が思ったより広いことを再認識した。
注文した水割りで喉を潤すまで、まどかは話をせずに待ってくれていた。どうやら他の店員はまだのようだ。ちょうどいい時間帯にやってきた。会話の途中で、
「私、出勤前に公園のベンチで座っていることが多いんですのよ。他の人に言えば笑われるんですけどね」
そう言ってはにかんだ。
驚いて見つめた私の目をまどかはどう感じたであろう。きっと驚きとも嬉しさと取れる表情をしていたに違いない。すぐに落ち着くと、
「どうして僕に話してくれたんだい?」
「あなたなら、きっと真面目に聞いてくれると思ったんですよ。まるで時々公園でお会いしているような感じがするくらいですよ」
思わずさっきの公園で文庫本を読んでいる女性を思い出して、ギョッとした。まどかに言われて、あいを思い出した時の懐かしさが頭をよぎる。
――きっと公園で本を読んでいるような女性を、私はいつも待ち望んでいるのかも知れない――
と感じるのだった。
――まどかを抱きたい――
ハッキリとそう感じた。あいに感じた「抱きたい」という思いの封印が解かれたような気がする。
しかし、なぜあいとの思いを封印したのだろう?
確かに突然の別れだった。
「あなたが重荷になるの」
とハッキリ口にしたあいのことが今でも目を瞑れば、瞼の裏に浮かんでくる。しかし、その後のことが思い出せないのだ。その言葉を聞いて私がどう答えたのか、そして、どうなったのか……。
思い出すのは、
「もう、あの女に会わない」
と感じたことであるが、それはあいに感じたことだった。何かが怖くなったに違いない。一体それが何であったのか、浮かんできそうなのだが、出てこない。
――それから私はあいに一度も会わなかったのだろうか?
今思い返すと、会ったような気がする。会って確かめたいことがあったのは間違いない。私のことを弄んだ憎き女というイメージが強かったのだが、なぜ突然、私を嫌になったのか聞きたかった。今後、他の女性と付き合う時の参考にしようという冷めた考えがあったのも事実で、それだけのために会いたかったのかも知れない。
きっとその時の私は冷静だったのだろう。では、なぜその時のことを思い出せないのだろう? 心境の変化でもあったのだろうか?
今までにも思い出そうとしたことが何度かあった。しかしそのたびに封印が強くなり、自分の気持ちは完全に殻に閉じこもってしまっていた。浮かんでくる顔のシルエットにはいったいどんな表情が隠されているのだろう?
まどかを見ていると、シルエットに浮かんだあいの表情がおぼろげによみがえってくるような気がして仕方がない。だが、どう考えても、まどかとあいでは違いすぎる。まだ子供のようなあどけなさの残ったあいと、妖艶な雰囲気のあるまどかではタイプも違えば、性格も違いそうだ。妖艶な雰囲気を持っているまどかであるが、大人の雰囲気から溢れ出る教養を感じることができる。
「あなたを見ていると、昔好きだった人を思い出すの。その人はいつまでも私のことを子供のように思っているに違いないわ」
「それはどういうことだい?」
「私がね、本を読んだりするようになったのも、その人があまりにも私を子供のように扱うから、それに対する反動だったのね。付き合っていたのは二年くらい前だったんだけど、その頃から私はスナックに勤めていたのよ」
「その人はお客さんだったのかい?」
「ええ、そう。馴染みのお客さんで、偶然駅でお会いしたの。その時はまだ出勤時間までに少し時間があったので、そのまま一緒にコーヒーを飲んで、そのまま同伴」
何となく情景が浮かんできた。まどかをこの暗いスナックの照明の下以外で見たらどんな気持ちになるだろう? 後ろから照明が当たって、それを見ているような錯覚を感じるが、そのシルエットは果たして私の想像するまどかなのだろうか?
――そこで浮かんでくるのがあいだったら――
という考えが浮かばないわけではない。
あいのしなやかな身体を思い出している。ちょっと触っただけでも弾けるように反応する身体、私の指の侵入を実にタイミングよく受け止める。きっと身体の相性は最高だったのではないだろうか?
それがあいを忘れられない最大の理由だった。
――虫の知らせ――
そう、私には虫の知らせのようなものがあると自覚していた。私という男があいにとって都合のいい男だったような気がする。
私は確かにあいに別れを告げられた後も会っている。そしてその最高の餌にありついたという記憶もよみがえってきた。今までいくら思い出そうとしても思い出せなかった記憶、それがまどかの存在で明らかになろうとしている。
公園で文庫本を読んでいる女性を見たのは偶然だったのだろうか? あれはあいが私に見せつけたような気がして仕方がない。
別れるつもりだった私が訪ねていってさすがに最初は拒むところがあった。しかし私が抱きしめると脆くも崩れるように全身の力を抜くあい。彼女に抵抗する力はなく、そのかわりすべての力を身体の敏感な部分に集中させて私を感じているようだった。
――この女はもう私のものだ――
そう思った瞬間、快楽をあいの中に放っていた。
しかし、それがあいのすべて計算された行動であったことを私は知る由もなかった。
一旦別れを言い出して私があいに対して焦り出す気持ちを搾り出し、一気に気持ちを高揚させる。
あいは私を縛っておきたかったようだ。従順な女で、私のいうことをよく聞き、さらには私の気持ちもよく理解してくれていたあいは、実は独占欲の強い女であった。
独占欲が強くても構わないと思っていた私だったが、従順な女性を相手にしていて、私に対しての嫉妬からか、猜疑心が強くなってきたことは、私にとってありがたいことではなかった。
――できれば別れたい――
ハッキリ言って煙たくなってきた。自分は確かに綺麗な女性がいたりすると無意識に目がいってしまう癖がある。あいもそのことを知っていたはずだ。なぜ今さら猜疑心の塊になる必要があるのだろう?
だんだんと思い出してきた。まどかを前にしていると不思議に記憶がよみがえってくる。
そう、確か私はあの時好きになりかかった女性がいた。そのためにあいが邪魔になったのだ。その女性は親身になって私のことを考えてくれた。私が何か悩みを持っていることもすぐに見抜いてくれたし、私にアドバイスもしてくれた。
作品名:短編集17(過去作品) 作家名:森本晃次