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短編集16(過去作品)

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 私に見つめられていたことを、りえは気付いていたのだろうか?
 りえの私を見る目が翌日から確実に変わった気がした。
 それまでは、どこか気品に溢れた表情のため、誰の視線も寄せ付けないような雰囲気があった。表情に「余裕」のようなものが感じられたのだ。
 しかし翌日のりえの表情には、「余裕」は感じられるのだが、私を見つめる目がいつもと違った。何となく潤んだように見えるのは、前日の美術館での表情を思うからだろうか?
 彼女が一生懸命に見ていた絵は、どこかの城のようなところだ。ドイツのライン川沿いには西洋の城がそびえているが、まるでドラキュラの出てきそうなその城を、りえはじっと見つめていた。
 人物や生活風景にはあまり興味を示していないようだった。
 私がずっと彼女を見つめはじめたのはいつからだっただろう。意識していないまでも、かなり以前からだったような気がする。
 あまり馴染みのなかった芸術と呼ばれるものに、興味を持ち始めたのは、それからだった。りえが私にもたらした効果というべきだろうか、私は趣味として油絵を覚えるようになったのである。
 動機は不純であったが、世の中、何が幸いするか分からないもの、遊びで応募したものが、佳作ではあったが、入賞したのだ。有頂天になったのは、言うまでもない。
「おめでとう。矢島くんにそんな素質があったなんて知らなかったわ」
 笑顔でりえが祝福してくれる。
 今まで私はりえからどのような目で見られていたのだろう。明らかにその口ぶりは、私の入選が意外だったということを示している。
 もっとも自分が一番意外に思っているのだから、他人が見て意外に思うのも当然なのだが、相手がりえだと余計に気になってしまう。
「そんなに意外かい?」
 苦笑しながら答えるが、りえの屈託のない笑顔は普段の大人っぽい表情からは想像できない。エクボを浮かべた表情だったが、潤んだ目だけは、以前美術館で見たあの瞳を彷彿させた。
 高校も三年生になると、一応自分の進路などを考える時期に入ってくる。私は元々大学進学志望だったが、芸術関係に進むかどうか思案のしどころだった。
「そんなに世の中甘くないぞ」
 親に一度相談したことがあったが、堅実な人生を絵に描いたように歩んできた一介のサラリーマンである父親の意見は、最初から分かっていた。
「分かってるよ。だから悩んでいるんじゃないか」
 それ以上は私も言えなかった。
 父の言うことはよく分かる。私が父の立場でも同じことを言っていただろう。それでも私の気持ちが分かってくれているのか、父もそれ以上強くは言わなかった。元々私の芸術も「趣味の世界」から脱却することはないだろう。
 しかし、芸術をやめるつもりはない。大事なりえとの繋がりだと思っているし、何と言っても私の最初に持つことができた「自信」なのだ。
――これが自分というものだ――
 とまで思っていたことには間違いない。誰が何と言おうとも、私にとっての芸術は、私自身を写しているのだ。
「応援してるわ。私、矢島くんの作品、大好きなの」
 そう言ってくれるりえがいとおしい。
「大好きなのは作品だけ?」
 と、喉まで出掛かった言葉を必死で抑えては、苦笑いをしていた。そんな私にりえは気付いたであろうか?
 私の作品の多くは風景画が多い、人間を描くのは苦手なのだ。
 どうしても自信がないというか、細かい表情を描く自信がない。きっとそこには、人生経験豊富で、人の心を読み取れるだけの自信がないと描けないという気持ちが強いからであろう。
 そこにあるのは、「心の余裕」かも知れない。
 すべてが、「心の余裕」から始まり、「心の余裕」が支配する。
 芸術の世界を知らなかった頃の私は、「心の余裕」など考えたこともなかった。ただ、何かを考えていても、そこに広がる大海原に飲まれてしまうような感覚で、どこから攻めていいのか分からないような感じだった。
 しかし、芸術に親しむことで、少しは見方が変わってきたのか、風景のような「動かないもの」を描くことはできるようになった。それが「心の余裕」だということに気付いたのはかなり後になってからだが、少なくとも大海原に飲まれることはなくなっていた。
 それでも人物を描くことは私にはまだできない。
 経験や実績がすべてだと思っている私は、人間の細かい表情を描けるほどの人物ではないことを自覚していた。
――おこがましい――
 この一言に尽きるのかも知れない。それだけ自分に自信がないのだ。
「心の余裕」が出てきても、それがそのまま自分に対しての自信に繋がるとは言いがたいだろう。
――りえを描いてみたい――
 この思いは最初からあった。
 しかし、それは以前美術館で見た、顎を突き出し、少し上向き加減で、潤んだ瞳をしていたあの表情、それが印象に残っているからだ。後にも先にもりえのあんな表情は、その時一回だけだった。それだけに、深く私の中に残っているのだ。
 どうして「私の作品が好き」と言ってくれた時、
「あなたを描きたい」
 と言えなかったのか……。
 言えるわけがない。何しろそこまでの自信がないのだから……。
 しかし、言う機会があったとすれば、あの時だけだったのかも知れない。
 結局言うことができないまま、りえと少し遠い存在になってしまった。
 東京の大学に入学したりえは、地元の大学に入学した私とは、休みの帰省の時くらいにしか話すことはなくなってしまった。
 地元の大学には、綺麗な女性もいっぱいいて、高校の頃とは違って、輝いて見えるから不思議だった。
 私服というのもあるかも知れない。
 今までは制服という同じ殻に収まって、同じような生活をしてきたのが、自分の進みたい進路に入学してきたということ、そしてキャンパスという雰囲気から、爆発的な開放感が彼女たちを綺麗に見せるのだろう。
 私とてそうだ。
 高校時代の暗い色の制服ではなく、季節にあった明るい色の服を着ているだけで、開放感に包まれた気がする。
 大学は、法学部を専攻していたが、美術は趣味として続けていた。
 それはりえとの約束でもあった。
「あなたの実力は私が知ってるわ。これからも続けてね」
 これは彼女が東京へ行く時、最後に会った時の言葉である。
「うん、分かってるよ。約束する」
 これだけの短い会話だったが、気持ちはお互いに伝わった気がした。
 しかし、大学というところ、不思議な魔力のあるところである。あれだけ芸術をやっている自分に誇りを持っていたのに、キャンパスという不思議な魅力のせいか、次第に芸術をやっている自分の姿が見えなくなっていった。
「おい、遊びに行こうぜ」
 その言葉が魔法のように私を襲う。
「ああ」
 二つ返事をすると、後は友達についていくだけだ。
 私が持っていたはずの「心の余裕」はどこへ行ってしまったのだろう?
 そんな気持ちがあったか、なかったか、その時の自分は気持ちが麻痺していたようで分からなかった。
 その頃からであろうか、私は自分が二重人格ではないかと思うようになっていた。
 まず、理由もないのに落ち込むことが多くなった。最初は大学に入学してすぐのことだったのだが、人に言わせると、
「そりゃ、お前、五月病だよ」
作品名:短編集16(過去作品) 作家名:森本晃次