短編集16(過去作品)
終わった時間は気にしていたが、食べ始めた時間を覚えていないため、漠然としか分からない。それでも一時間近くにはなっていただろう。テレビを見ていないつもりでも、今日は見ていたのかも知れない。それだけ精神的に余裕があり、普段の平日と正反対なのだ。
テレビがついていることがこれほど心にゆとりを持たせるのかと、再認識した。なければないでそれなりに過ごせるのだろうが、音のない生活は殺風景である。やけに時計の秒針の音が気になったり、ひどい時には自分の心臓の鼓動まで気になることがある。
――なぜなんだろう?
と思うこともしばしばで、それが音のないことが原因だとはなかなか気付くものではない。
しかし、音のない世界で集中してできることもある。それが休みの日であればなおさらで、例えば本を読んでいる時などのように、自分の世界に浸りたい時など、その典型ではないだろうか。本を読んでいて本の世界に引き込めれているようでも、想像力は自分のものなのだ。自分の世界に入らなければきっと本を読むことなどできないだろう。
想像力を膨らませるというのは、意外とエネルギーがいるものである。自分の世界を作り上げるまでに自分のテンションを引き上げ、まわりの雑念を振り払いながらの時間は、意識していないだけに、神経を使う。そう、自分の中に意識がない方が楽なのだ。
――分かってはいるけど、難しい――
自分に言い聞かせる。それを実現させてくれるのが喫茶「イソップ」なのだ。常連がいる時は常連と話すこともあるが、それ以外の目的は「自分の世界」を作り出すことである。
その日も朝食の後片付けをして、さっそく本を手に持った。まだ少しお腹が空いているという程度がちょうどよく、店まで歩いていく頃までには空腹感を味わえるかも知れない。空腹時の方が本を読むのに集中できるのは私だけではないだろう。コーヒーを口に運びながらの読書は、想像しただけでも高貴なイメージが湧いてきて、それだけで楽しくなってくる。
元々読書は好きな方ではなかった。学生の頃など国語の時間は嫌いだった。せっかちな性格の私はテストなどでも即答問題なら何とかなったが、文章の解読のような問題は、読むだけで嫌になっていた。時間配分ができないからである。
いつも緻密に時間配分を考えて試験を受けていたので、その例外となる国語の文章題は嫌いだったのだ。したがって部分部分しか読まずに回答に走ってしまう。これでは読書の本質が分からない。当然読書が好きになるわけはない。
そんな私が読書を始めたのは、初めてここ喫茶「イソップ」に入った時であった。ここを見た第一印象で、店内にいる自分の本を読んでいる姿が想像できたからだ。
――気持ちの余裕――
その時に初めて感じたのかも知れない。
本だけ持った身軽な恰好で出かけられるのも、休日のいいところである。仕事に行く時は営業用のカバンを持っているため、結構それだけできついものがある。家で仕事をしようと思ったこともあったが、疲れた身体で部屋に入って、仕事ができるはずもない。
帰宅時間が一定しているわけではないが、帰りは必ず真っ暗な時間帯だ。真っ暗な部屋に入って最初に感じるのは部屋の「冷たさ」である。「寒さ」を通り越した「冷たさ」、そこからは生活の息吹きが感じられない。私が電気をつけ、部屋に入ることで初めて部屋に生活の息吹きが復活するのだ。
そんな状態の部屋に帰ってきて最初に感じるのは脱力感である。ホッとした気持ちからくることもあるが、そんな状態で仕事などできようはずもない。目一杯仕事をしてきた後に不可能というものだ。しかしそれでも仕事を持って帰る。それはきっと私の性分なのだろう。
朝日もかなり高いところにあり、通勤時間のような凍てつく寒さがあるわけでもない。風が吹いても温かく、まるで春の訪れを予感させるような感じだった。
――朝は放射冷却現象があるからな――
天気のいい日の朝ほど、寒いものである。霜が降りたり、水溜りが凍っていたりと、風など吹いていたら、これほど辛いものはない。いつもの通勤路もいつものサラリーマンと違い、買い物に行く主婦の姿が多く、ホッとする気持ちにさせられる原因であろう。
ほのかに汗が滲んでいるような気がするのは気のせいであろうか?
いや、確かに日差しは強いものがある。この時期は寒暖の差が激しいため、洋服を合わせるのも難しく、風邪などには気をつけなければならないようだ。そのあたりは分かっているのか、それほど厚着をしている人をあまり見かけない。
コートを羽織って、マフラーまでしている自分が少し恥ずかしく、思わず苦笑いが漏れた。しかしそれも気持ちの余裕の表れだ。平日なら、人の服装のことなどまで、気が廻らないからである。
通勤路から少し入ると、住宅地へと向かう。住宅地への入り口に目指す喫茶「イソップ」はあり、少し坂になったところをゆっくりと歩いていくのも楽しみの一つだった。何しろ通勤路と違う道に入ること自体が新鮮なのである。いつもと違う行動が、心ときめくのだ。
――まるで昨日も来たようだ――
ここ二週間ほどご無沙汰していたが、まるで昨日のことのように思うのは、それだけ毎日の通勤が張り合いもなく、ただ漠然としたものなのかということを表わしていた。日差しを背中に受け、歩いていると、目の前にひときわ目立つ喫茶「イソップ」が現れた。
白壁風の建て方はまるで「お菓子の家」を思わせ、いかにも童話の世界を演出しているかのようだ。夜でもライトアップされ綺麗な外観は朝日を浴びて、あたりにその存在を浮かび上がらせている。
「カランカラン」
アルプスの羊の首にぶら下げてある鐘の音のような鈍い音が店内に響き渡った。音が次第にフェードアウトしていく中、店内を見渡すと少し予想していなかったことに一瞬たじろいでしまった。
――思ったより客が多い――
それも知っている常連はそれほどおらず、皆あまり知っている人たちではなかった。
――失敗だったかな? 帰ろうかな――
とも考えたが、マスターの、
「いらっしゃいませ」
の声が一瞬早く、帰るに帰れなくなってしまった。入り口にしばらく立ち尽くしている私を見ながら苦笑いをしている店長は、きっと私のその時の心境を思い図ってくれているのだろう。
「申し訳ない」
と言わんばかりに頭を下げていたが、マスターが悪いわけではなく、却って恐縮至極であった。
いつものようにカウンターに座る。
実は、私には「指定席」がある。ある程度混んでいる時でもその場所は空いていて、その日もテーブル席は結構埋まるほどの賑わいなのだけれど、カウンターはそれほどでもない。最初に来た時もその日と変わらないくらいの賑わいだったが、やはり同じようにカウンターは空いていた。
店内を舐めるように眺めながらカウンター席へと歩み寄った私は、迷うことなく指定席である。一番奥のカウンターに腰掛けた。ここからであれば回転椅子を使って店内をゆっくり見渡すことができるという気持ちが強いからで、する、しないは別にして、無意識に座る癖がついていた。
さすがに忙しいのか、マスターはほとんど顔を上げることもなくバタバタしている。こんな時話しかけるのは気の毒で、
作品名:短編集16(過去作品) 作家名:森本晃次