短編集16(過去作品)
繋がらない記憶
繋がらない記憶
私の朝の行動は大体決まっている。それが休みの日であろうが同じことで、パターンが変わることはない。
朝の起床は七時頃が多い。仕事の時は目覚まし時計を掛けておくが、まず目覚ましが鳴るまでに起きないことはない。七時が近づくと目が覚めるように体内時計ができているのか、休みの日でもよほどのことがない限りその時間に目が覚める。
布団から出るか出ないかだけの違いなのだが、冬の寒い日の休日でもない限り、起きてこないということはない。
冬の時期なら暖房、夏なら冷房のタイマーを起床三十分前にセットしておくので、起きにくいということもない。そのあたりの私はしっかりしているのだ。
季節は冬である。夏の頃に比べると、若干起きにくくなっているのは仕方のないことだが、東側を向いた出窓から、カーテンを掛けているにもかかわらず差し込んでくる朝日に心地よくなっているので、それほど起きてくるのに苦痛を感じない。
「ふぁ〜」
一つ大きく伸びをする。それもいつもの朝のパターンだ。反射的に出てくる涙を指で拭うのも無意識の行動で、さぞかしきついしかめ面になっていて、自分でも見るのが嫌な顔になっていることだろう。
それでも顔を洗うとスッキリするもので、洗面台に向かってタオルで顔を拭く時に、初めてその日の自分を実感するのだ。
顔を洗うと途端に腹が減ってくるのは条件反射のようなものだろうか。その頃には出窓のカーテンを開けていて、キッチンに差し込む朝日を見ると、コーヒーと目玉焼きの香ばしい香りを想像するのは、よほど食欲があるからかも知れない。
かといってそれほど朝食をたくさん食べれるわけではない。トーストが二枚、目玉焼きかスクランブルエッグにソーセージかベーコン、この組み合わせはその日の気分によって違う。差し込んでくる日差しを見ながら想像する香りに由来するところが大である。
「今日はスクランブルエッグの日だな」
昨朝が目玉焼きだったので、今朝はスクランブルエッグ、それならソーセージの方がいいかも知れないと考えた。
考えながらコーヒーを作っている。サイフォンを使った本格的なものだが、豆は昨夜から用意していて、後はランプの火をつけるだけだった。本来なら、朝挽きたての豆で入れるのがおいしい秘訣なのだろうが、そのあたりにこだわりはなく、ただ時間的な効率を考えることが多かった。水を入れ、アルコールランプに火をつけると、アルコールランプからアルコールの燃える匂いがしてくる。私はこの匂いも嫌いではなかった。
無造作にテレビのリモコンのスイッチを入れる。殺風景な部屋がパッと明るくなった気がするが、つけているだけで見ているわけではない。「ながら」作業の中で殺風景なのを一番嫌うからだ。
――今日はどこかに出かけようかな?
最近休みの日というと、いつも部屋にいることが多かった。出かけてみても行きたいところがあるわけでもなく、しかも一人で出かけてもそれほど楽しいものではない。今日出かけてみようかと感じたのは、たぶんコーヒーの香りをたまらなく感じたからかも知れない。
テレビを見ていると朝の情報番組をやっていた。社会経済のニュースから、スポーツ芸能と来て、旅行や近場の穴場スポットの案内と、なかなか充実した内容になっている。以前であれば休みの日であってもそれほど気にすることもなかったのだが、今日は朝食を作りながらでも気にして見ている自分がいるのをハッキリと確認できた。
いつもは見ていても漠然としてなので、見ているという感覚がない。そのため、
――どこかで見たんだけど、どこでだったかな?
と思い返すことも多く、そんな時はたいていテレビの情報番組が多かったりした。
スクランブルエッグの焼ける匂いと油の弾ける音が食欲を誘う。朝日が差し込む中、やけに目覚まし時計の秒を刻む音が気になっているのはなぜだろう? 今までが朝というとあまりにもボ〜ッとしていることが多かったからかも知れない。
テレビ番組はちょうど旅行の特集で温泉を紹介している。温泉旅館の食事メニューが映し出され、それをおいしそうにレポーターが食べている。食欲をそそるはずである。
――こんなにゆっくりした気分になれるのは久しぶりだ――
独身で一人暮らしの私は、休みの日は基本的に退屈である。付き合っている特定の彼女もおらず、かといって一緒にどこかへ遊びに行く男友達もいない。何しろ皆デートで忙しいらしく、たまたまスケジュールが合ったとしても、下手に一緒に行動すると彼女とのノロケ話を聴かされるのがオチだからだ。
――しょうがない、一人でいるか――
と、こうなるのだ。
しかし休日が暇だからといって、いつも落ち着いているとは限らない。どちらかというとせっかちなタイプの私は退屈な時ほど苦痛なのである。時間がゆっくりとしか流れず、それこそいつも時計を気にしていて、五分が一時間くらいの感覚でしかないのだ。
――まだこれだけしか時間が経っていないのか――
と恨めしそうに時計を見ている自分を感じる。
しかし不思議なことに退屈でしょっちゅう時計を気にしている時の方が、秒を刻む音が気にならないのだ。今日のように気分的に落ち着いている時の方が秒を刻む音を感じるのはなぜなのだろう? 再度考えている自分がいる。
ゆったりとした気分で食べる朝食はなかなかおいしいものだ。テレビを見ながら、新聞を見ながら、朝食を食べる。いつもと同じ行動なのだが、何かが違う。テレビにも新聞にも集中しているのだ。
――「ながら」は「ながら」でしかない――
と思っていたが、どうやらそうでもないようだ。
――今日もまずはいつもの喫茶店に行ってみるか――
休みの日には必ず立ち寄る喫茶店がある。死ぬほど退屈な時ほど、そこに寄ってみたくなるもので、それまでなかなか進まなかった時間がそこにいくことで急に進みだすことも多々あった。置いてある漫画を読んだりするからかも知れないが、すでに常連となっているので、店の雰囲気や他の常連さんとの話が、退屈を吹き飛ばしてくれるのだ。
朝起きてから最初に考えるのは、その喫茶店のことなのかも知れない。そうでもなければ、退屈な時も充実している時も同じ朝の行動パターンをとることはないからだろう。
名前は喫茶「イソップ」といい、そのネーミングと、名前に負けず劣らずの外観で、入ってみようと感じたのが最初だったのだ。
見ているテレビが近場の喫茶店を映し出している。それも立ち寄ってみたいという気持ちを高揚させていく。
それでも朝食はゆっくりと味わって食べた。日頃の朝は喧騒としていて、とてもゆっくり食事をしようなどという気分にはなれない。ゆっくりしようと思えばできるのだが、元から仕事の時は自らの士気を高めることもあってか、落ち着いた気分になかなかなれるタイプではない。休みの日くらいにしか、ゆっくり朝日を感じながら朝食が食べれない性分なのだ。
時間にしてどれくらいだっただろう?
作品名:短編集16(過去作品) 作家名:森本晃次