永遠を繋ぐ
――だけど、そんな大げさなものではないのかも知れない――
小説の発想など、誰にでも持つことができる。ただ、
「自分には小説を書くなどという力が備わっているはずがない」
という思いを抱いていることで、せっかくの力を自分自身で握り潰しているのだろう。
藤崎は、自分の世界に入り込み、そして見えない力の存在を自分と同じように感じることができる人がいるとすれば、それは日向ではないかと思えた。逆に日向という男性と知り合うことで藤崎は、自分が小説を書く時自分の世界に入り込むのだということをいまさらながらに、そして見えない力の存在をこの時初めて実感できるようになったのではないかと感じた。
藤崎は、スナック「コスモス」のママと知り合ったことで、彼女をモチーフにした小説を書いたことがあった。ママ本人が読んだとしても、その内容が自分のことだとは思えないように、内容的にはかなりの着色を加えていたが、意外と二人のことを知っている共通の知り合いが読めば、何となく分かってくるのではないかと思えてきた。
「小説というのは、誰にでも自由な発想を生み出すことができる土壌と、作者の意図によって知らず知らずに引き込まれている世界を読者が感じることなく、ごく自然に物語が進行していることではないかと思うんだ」
と、ママに話したことがあった。
それを聞いてママは含み笑いしたが、その時にはすでに自分のことを題材にして藤崎が小説を書こうとしているのだと、気が付いていたようだった。
しかし、ママはそのことを一言も藤崎に話をしなかった。ママが気づいていたなどということを藤崎は夢にも思っていなかっただろう。藤崎という男は小説を書くだけあって想像力は発想は優れているところもあるが、他人の気持ちを読んだり、場の雰囲気を掴んだりということは苦手だった。それだけに、まわりの人との協調性はあまりなく、孤独なことが多かった。
それでも、自分と考えが似ている人や、同じような発想ができる人を見抜く力は備わっており、仲間内では一目置かれていたのだ。
そんな両面を持った藤崎だったが、その両面を知っている人はごく少なかった。ママと日向は分かっているようで、藤崎の数少ない理解者だと言ってもいいだろう。
ママは藤崎に自分のことを書かれることに抵抗はなかった。
「せっかくなら、世に出ればいいんでしょうけど、今の彼に売れる本が書けるとは思わないわ」
あまり小説を読む方ではないママだったが、藤崎の話があまりにも唐突すぎて、一般受けするとは思えなかった。本人も自覚している通りの、「マニア受け」である。
藤崎の小説を読んでいると、本当に唐突に感じられるが、小説を書く上での骨格に、信憑性がなければ書ける話ではないと思っているのは、日向だった。
日向も突飛な発想をするが、まったく火のないところに煙が立っているというわけでない。何かを思いつく時も、それまで考えていたことをすべて忘れてしまうほどの突飛な発想であるため、いきなり出てきたような気がするのだろうが、いきなり発想が生まれるなどということはなく、その前兆が確かにあったのだ。
その前兆が長ければ長いほど奇抜なものであり、繋ぎ合わせた個所が多ければ多いほど、まるで「わらしべ長者」のお話のように、入り口と出口の大きな違いが、形となって現れる気がしていた。
「藤崎さんの頭の中の構造を、覗いてみたい」
ママが話していたが、日向はそこまでは思わない。
「自分は少し発想を変えるだけで、藤崎さんと同じ発想を思いつくに違いない」
と思っていた。
ただ実際には、日向が考えているほど藤崎の頭のなかは単純ではなかった。
「入り口を見つけることはできても、出口を見つけることはできないかも知れない」
つまりは、
「一度入ってしまうと、抜けられなくなる」
という思いがあるからか、迂闊に飛び込んでいけないことを感じていた。
それでも藤崎が話していた、
「俺は、永遠の命を繋いでいる人がいるという話を信じられるんだ」
という発想は、日向にも分からないわけではない。この発想を謎かけとして、店の女の子に話をする時点で、藤崎の中では、
「それほど、突飛な発想ではない」
という思いがあったのかも知れない。
しかし、何となく発想が浮かんでくる日向には、藤崎が考えているほどこの発想が単純なものではないことを分かっていた。
実は日向も同じような発想を、昔したことがあった。
その時は、まだ学生の頃で、藤崎が作家デビューした頃だっただろうか?
藤崎の小説を日向は読んだことがなった。ずっと最近まで、藤崎が小説家だということも知らなかったくらいである。
「不思議な発想をする人だ」
という意識はあったが、それ以上のことを何も感じなかった。
そういう意味では、藤崎の方が、日向の方を意識していた。なるべく不思議な発想をする時、日向がそばにいてほしくないと思っていたこともあった。しかし、最近は逆に、日向の前での方が饒舌になっていた。
日向のことを意識することで、もっと突飛な発想が思いつくような気がしていたからだった。
日向は藤崎が、
「ひょっとすると、俺と彼は二人で一人の存在なのかも知れない」
などと思っているなど、想像もできなかった。
しかし、藤崎を見ていると、日向の方も、
「自分が意識してこなかったことでも、藤崎のような男なら、意識に止めていただろうに……」
と感じていた。
日向は藤崎のように、あからさまに自分の記憶が抜けているという意識を持っているわけではないが、その代わり、
「自分が考えていることを知っている人が、この世には何人かいる」
と思っていた。
それは、何も言わなくても、姿を見るだけで看過できるということで、広い世界のどこかには、そんな人が一人や二人はいても不思議ではない。日向の場合、その思いの信憑性は高く、さらにそのうちの一人は、実に自分に近い位置にいるのではないかと、ずっと以前から感じていた。
「それが、この藤崎という人なのかも知れない」
年齢的にもかなり上ではあるが、五十代の発想というよりも、若い頃の発想がそのまま膨らんでいき、今の自分と同じくらいの年齢の時から、それほど発想は変わっていないのではないかと思えた。それだけ、外見と発想とにギャップが感じられ、日向にとっても、藤崎は無視できない存在だったのだ。
ただ、お互いに意識し合ってはいるが、その意識がぶつかることはなかった。相手が自分のことを必要以上に意識しているということにお互い、気づいていなかったのだ。
藤崎には自分の精神的な年齢が、まだ三十代であるという意識があった。それは三十歳からの発想年齢が進んでいないということよりも、あっという間に過ぎてしまった年月が、発想を年齢とともに重ねさせないための力が働いたのだと思っている。
年齢を重ねることと、精神的な年齢を重ねることを同じ土俵で考えないようにしていた。なぜなら、精神的な年齢というのと、一般的に言われる「精神年齢」とを分けて考えたかったからだ。
一般的に言われる「精神年齢」とは、
「年齢や時間を重ねるごとに、洗練されていくものだ」