永遠を繋ぐ
不敵な笑みを浮かべた日向を感じると、反射的に顔が日向に向けられた。それは一瞬のことだったので、きっと同じように不敵な笑みが浮かんでいると思ったのだ。
しかし、実際にはまったくの無表情。いわゆる「埴輪」とでも言っていいような表情に対し、
――そんなに簡単に表情を変えられるものだろうか?
と感じ、
――不敵な笑みというのは、自分の錯覚で、最初から無表情だったのかも知れない――
という思い、
――反射的に顔を向けたと思っていたが、本当は一瞬ではなく、しばしの時間を要していたのかも知れない――
という思い、さらには、
――日向さんを意識したと思っていたけど、本当は横目に見はしたが、まったく見えなかったので、自分の妄想がイメージさせたことなのかも知れない――
などと、いくつかの思いを抱いていたのだ。
日向という人物が、藤崎の思っている人間に限りなく近いか、それとも、まったく違っているかのどちらかのように思えた。妄想するのもそのためで、そのどちらかによって、妄想の種類はまったく違い、それがそのまま日向に対する藤崎の思いに繋がっているように思えたのだ。
そういえば以前、
「日向さんは、ママと時々お話しているわ」
と、店の女の子から聞かされたことがあった。
その時、まだ藤崎はママを意識しているわけではなかったので、そのまま聞いた話をスルーしたが、実際にはその時の意識が燻っていて、その時に初めてママに対しての思いが浮かんできたのかも知れないと感じた。
しかし、実際にママに聞いてみると、
「日向さんとは、お仕事の悩みを聞いて差し上げたことはあったけど、あなたの考えているような親密なことはなかったわ」
と言って、微笑んでいる。さらに、
「あら? 嫉妬してくれているの?」
と、嘯いている。そんなことを聞くのは、本当に何もなかった証拠だと藤崎は感じていた。
「うん、嫉妬しているのさ」
本当は、嫉妬したわけではないが、ホッとしたのは事実なので、少し大げさに言ってみた。照れ隠しもあって、藤崎はその時、間髪入れずにママを抱きしめて、羽交い絞めにした。
「ちょっと、どうしたの?」
と口では慌てているような言い方だが、抗っているわけではない。
――こんなじゃれ合いも悪くはない――
と思った藤崎だった。
その時、藤崎は別のことを考えていた。
「やっぱり、俺には永遠の命が備わっているんだ」
という思いだった。
「以前にもまったく同じシチュエーションがあった」
それは酷似という程度のものではなく、本当にまったく同じシチュエーションで、考えていることも同じだった。同じことを考えているからこそ、
「まったく同じシチュエーションだ」
と感じたのであり、もし、そう感じたのであれば、真っ先に考えることとして、
「夢だったのではないか?」
という思いを抱くはずなのに、その時にはまったく夢などという思いを抱いたわけではなかった。
藤崎にはここ最近、同じような思いを感じることが結構あった。一度や二度であれば、気のせいだということで片づけてしまうのだろうが、短期間に何度も同じようなことを考えるのだとすれば、気のせいで片づけられないことは容易に想像がつく。
ただ、その思いがいきなり、
「永遠の命が備わっている」
などという発想に結びつくはずもない。
藤崎が何かを感じ、そしてそのことに思いを馳せる時、一種のパターンがあった。それがどんなパターンなのか分からない。
いや、正確に言えば、覚えていないのだ。
「その時には感じたはずなのに……」
そんな思いは今に始まったことではない。しかし、何度も繰り返していると、
「人生を堂々巡りしているのではないか?」
と思えてくる。
ただ、それはシチュエーションを繰り返しているだけで、本当に年を取っていないというわけではないだろう。それだけのことで、永遠の命などという発想が生まれるはずもない。一体、どこから生まれた発想なのか、覚えていない記憶の中に、その答えが隠されているに違いない。
その頃から日向に対しての思い入れは激しくなっていった。
ただ、そこには嫉妬があるわけではない。
「俺が忘れてしまった記憶を、彼がひょっとすると思い出させてくれるかも知れない」
という思いが浮かんだからだった。
「ひょっとすると、俺と彼は二人で一人の存在なのかも知れない」
という突飛な発想も浮かんできた。それだけ日向という男性を藤崎は無視することができなくなっていた。
だが、ごく最近は、スナック「コスモス」を離れると、日向のことを忘れてしまっていることが多い。それだけ自分のことで一生懸命なのかも知れないが、自分のことですら、時々上の空のことがある。スナック「コスモス」でのことは、本当にまったく別世界での出来事のように思えてならなかったのだ。
売れてはいないが、仮にも作家である藤崎は、小説を書いている時の自分が、まるで別人のように感じることがある。
「自分の作品に無意識に引き込まれている」
という意識を後から感じるが、作品を書いているのは自分、ひょっとすると、
「作品を書いているのは自分だと思っているが、見えない何かの力に突き動かされ、書かされているだけなのかも知れない」
と思うこともあった。
それは小説家としての自意識を著しく狂わせるものである。自信喪失にも繋がることだが、いくら売れないとはいえ、それでも小説を書いているのは、
「俺の作品は、他の誰にも書くことのできない独創的なものだ」
という自負があるからだった。
その自信を失うことは、生きている自分を否定するようで、自分としては承服できるはずがない。それなのに、見えない力を感じている自分がいるのも事実であり、この思いがジレンマとなって自分に襲い掛かってきていることが、一歩踏みさせない理由の一つではないかと思うのだった。
小説を書いている時は、どんな奇抜な発想のフィクションであっても、その情景を頭に思い浮かべなければ書くことができない。だが、時々自分が情景を思い浮かべたわけでもないのに、描写を描けていることがあった。
しかも、その描写は以前に自分が感じたことがあると思う描写であり、すべて後から感じていることのはずなのに、どうして気が付いたら描けているのかと思うと、見えない力の存在を否定することはできないだろう。
見えない力は、自分を別世界に連れていき、描写を頭の中に叩きこませる。小説を書いている時だけは、その見えない力の存在を知る唯一の時であるにも関わらず、その時だけは、見えない力の存在を否定したいと思っている自分がいることで、結局、その存在を確信することができない。だからこそ、
「見えない力」
という表現がピッタリなのだろうが、もし自分が小説を書いていなければ、その存在すら感じることもなかったはずだ。
そう思うと、見えない力が働いているのは、自分だけではない。誰にでも見えない力が働くだけの土台を持っていて、その影響を感じることなく、スルーしているのではないかと思うと、見えない力の存在を感じることができるだけ、藤崎は他の人と違った力を有しているように思えていた。