永遠を繋ぐ
と前後の文章を読み直さないと分からないくらいだった。
藤崎は自分の小説を時間が経ってから読み返すようなことはあまりしなかった。添削が大の苦手だからだ。そのかわり、書き始めに前の日に書いた内容を読み返すように心がけていた。
五十歳になって最初に書いた小説は、後になってからも読み返してみた。
――これは今までの自分が書いた作品でも最高傑作かも知れない――
と感じていた。
書いている時も、どんどん発想が思い浮かんできて、書き終えてみると、最初に作ったプロットと、まったく違った作品になっていた。今までにもプロットと違う作品になったことは結構あったが、書き始めの最初からまったく違う作品が出来上がるという意識を持っていたのは、この作品だけだったかも知れない。
最高傑作という発想は
――今までの自分が書いた作品の集大成のような気がする――
という発想からだった。
だが、この時藤崎は別の発想をしていた。
――この作品を書き上げたことで、別のパラレルワールドが開けて、もう一人の自分が、こちらを見つめているかのようだ――
と感じていた。
藤崎の思いは、いつの間にかもう一人の自分の中に乗り移り、気が付けば、今の自分を冷静に見ているようだった。
もう一人の自分の目から見ると、今の自分が考えていることとまったく違う面が見えているようだった。冷静に考えると、確かに落ち着いているように見えるが、考えていることは、
――同じ時間を繰り返している世界から、いかに逃れるか――
という思いだった。
藤崎は自分が同じ時間を繰り返していると思い込んでいる。そういう風に表から見ると見えるのだ。しかし、そう感じるのは、もう一人の自分だけで、他の人にも、当の本人も分からない。
――これは自分だけではないのかも知れないな――
他の人のことは分からないが、もし、他の人にももう一人の自分が存在し、同じように冷静な目で見れば、当の本人は同じ時間を繰り返していることを分かっていて、いかに逃れようかということを考えているようだった。
もちろん、そんなことを悟る人が他にいるとは思えなかったが、そういう意味で藤崎という人間は、
――選ばれた人間―
なのではないかと思うのだった。
藤崎は自分の小説の中で、もう一人の自分を描いた。そして、その存在を悟ることができるのは、選ばれた人間だけだということを書いたのだ。
しかし、藤崎は、
「何か、物足りなさを感じる。それが何なのか、見当もつかない」
と思っていた。
しかし、見当もつかないと思いながら、もう一つの考えとして、
「ほぼほぼ正解までたどり着いているのだが、そこからが遠い」
と感じてもいた。
「百里の道を行くのに、九十九里をもって半ばとす」
ということわざがあるが、自分もそのことわざにまんまと嵌っているような気がしていた。
正解が見えてきたとしても、自分がこれまで歩んできた道を顧みないことには、これからの距離がどれだけのものなのか、見誤ってしまうというものだ。
藤崎の中で、何が正解なのかということをいち早く知りたいがために、焦る気持ちが幻を見せているのかも知れない。見えたと思ったことで、自分の中に油断が生じたのかも知れないからだ。
「まるで、砂漠の中でオアシスを見つけたが、それが蜃気楼だったような心境に近いものがある」
と感じていた。
藤崎はこの小説にどうしても、
――同じ日を繰り返している――
という発想を入れたかった。
それもメインのストーリーとしてではなく、最後のシーンで、
「実は同じ日を繰り返していた」
という、どんでん返しのストーリー仕立てにしたかったのだ。
だが、それは結構な困難を極めた。
メインテーマで考えていた発想よりも、同じ日を繰り返しているという発想の方がインパクトが強いからだ。どうしても、インパクトの強い方に意識が行ってしまうので、途中のストーリーがダラダラしているのではないかと思えてきた。
淡々としたストーリー展開というのは、藤崎の中で十分にありだと思えるものだった。淡々とした展開があればこそ、ラストシーンが生きるのだ。
「最初にある程度深いところの印象を植え付け、ラストで最大のインパクトを含んだ解決編を描く」
それが藤崎の作風だった。
そのために、途中がどうしても淡々とした流れになってしまう。特に時系列を重んじてしまうと、余計に流れに逆らっていないことで、インパクトは皆無に等しい。中には、飽きてしまって、読むのをやめてしまう人もいるだろう。
しかし、藤崎はそれでもよかった。
「本当に俺の小説を読みたいと思ってくれる人にだけ支持されればそれでいいんだ」
と思ったからだ。
そういう意味では、売れっ子小説家になりたいとは思わない。少数派でも根強いファンのいる作家の方が、自分に合っていると思っている。売れっ子小説家になってしまうと、一時期のブームとしてのセンセーショナルが強い分だけ、ブームが去った後は忘れられてしまうかも知れないという危惧があった。
「息が長い小説家」
というのを、最初にデビューした時から目指していたが、さすがにここまで売れなくなるとそうも言っていられない。何とか年を取ってきたとはいえ、もう一度起死回生を狙ってみたいと密かに思い続けている。
自分と同じ時期にデビューした作家の中で、自分よりも売れていた人が何人消えていったことだろう。辞める時期が絶妙だった人は、別の世界へ、
「華麗なる転身」
を遂げたかも知れないが、迷いからなかなか抜けられなかった人がその後どうなったのか、藤崎は知らなかった。
元々藤崎も、
「自分よりも才能がある」
と思っていた小説家が何人も消えていっているのを危惧していた。中には自分と作風が似ている人もいて、会ったこともなければ、顔も知らないのに、勝手にどんな人物なのか、勝手に想像していた。
自分よりも才能があると思っていた人の中には、小説家が本業ではない人もいた。サラリーマンをやりながら作家活動をしていたり、主婦をしながら作品を書いていたりする人たちだ。
彼らがどうして自分よりも優れていると思える作品が書けるのか、すぐには分からなかった。しかし考えてみれば、当然のことなのかも知れない。
なぜなら、彼らは元々から小説家である人と違い、俗世間の中で生きてきたのだ。それだけ読者に「近い存在」であり、読者を引き付けることや、納得させることができる内容の小説を書くことができるのだ。
――じゃあ、俺たち小説家は、独りよがりであったり、自己満足に浸っているだけの作品だけしか書けないということなのか?
と、思えてならない。
小説家というものは、悲しいかな、一人の仕事なので、他の人と違った意味で、プライドが高い。独りよがりであったり、自己満足に浸るのも無理のないことだ。逆に自信過剰なくらいの方が、人には書けない優れた作品を書くことができるのだと以前からずっと思っていた。