永遠を繋ぐ
藤崎は自分の書いている小説の中に入り込んでしまうことが結構あった。むしろ、主人公の身になって書かなければ想像などできるはずがないと思っていたからだ。
しかし、内容は現実世界からかけ離れているもので、なかなか想像の域に達することはできない。小説を書き始めた最初の頃は、そのことで悩んだものだった。
しかし、ある時から、自分の中にもう一人の自分を感じるようになると、もう一人の自分が小説の中に入り込んでいくのが分かった。
一度入り込んでしまうと、今度は入り込んだ自分の目で小説の世界を見ることができる。つまり、もう一人の自分というのは、
――小説世界に入り込むためだけに存在している――
という思いもあるくらいだった。
小説世界の中から表を見ることができるようになった理由に、もう一人の自分の存在を感じたのは、しばらくしてのことだった。なぜいきなり小説世界の中で自分の目線で見ることができるようになったのか不思議だった。何かのきっかけでもあれば分かるのだが、まったくいきなり前兆もなく始まった意識は、藤崎に不思議な感覚を残すことになったのだ。
同じ日を繰り返している感覚は、夢の中で見たものであり、忘れてしまったと思っている記憶の欠片を繋ぎ合わせて、失ってしまった自分の記憶としてよみがえらせようとする。
同じ日を繰り返しているのだから、同じ感情を毎日感じていることになるので、ここまで来ると、不思議でも何でもなく感じられるようになってくる。
小説世界と、現実世界の境目は、現実世界と夢の世界の境目と似たものがあるのだろうか?
そうであれば、小説世界は夢の中で見たことを客観的に描いているものであり、夢の中で見たものではないという思いを抱かせようとすると、客観的ではなく、自分の目線で見ることが不可欠になるだろう。
小説の主人公は、もう一人の自分だと思いながら小説を書いていると、どんどん発想が浮かんできた。
――やはり、客観的にしか見ることができないのだから、この世界は決して夢の世界で見たものではない――
と感じさせ、そう思うと、自分の意識が働いていない記憶が、生々しく執筆中に頭の中に浮かんでくるのだ。
小説を書いている時は、時間があっという間に過ぎている。
――心ここにあらず――
というのは、まさしくこのことではないだろうか。
どこまでが自分の意識から派生したもので、そしてどこからが、現実世界の自分だけが感じている「もう一人の自分」の意識によるものなのか分からない。心がここにないのは、どっちの自分なのか分かる時がくれば、なぜ同じ日を繰り返しているという発想が生まれてきたのか、理解できるようになるだろう。
あまり前世との関わりなど、考える方ではなかった藤崎だったが、小説を書きたいと思って、不思議な力や不思議な現象が書かれた本を読み漁ったものだった。その中には「タイムトラベル」、「パラレルワールド」などの不思議な現象や、「テレパシー」、「予知能力」と言った不思議な力が書かれていた。
最初は、自分が不思議な力や現象をテーマにした小説など、書けるはずがないと思っていたが、ある日急に、
「俺にはできる」
と感じたことがあった。
急に思い立つというのは、日ごろから頭の片隅であっても、意識の中に存在しなければ現れることはないと思っていた。急に何かを思いつくには、必ず「きっかけ」が必要で、発想が数珠つなぎに繋がっていなければ、そう簡単に生まれてくるものではない。小説の発想も、いくつか浮かんできたキーワードをいかにうまく結びつけるかが問題なのだろうが、一つの線が繋がれば、他の線を結びつけることは、さほど難しいことではない。
逆に、思いついたのであれば、一気にある程度の結論を導きだしてしまわないと、次に考えた時には違った発想を持っていることになるかも知れない。
メモっておけばいいのかも知れないが、発想が途切れるようなことになれば、後になってメモしたことを読み返しても、その時どんな感情で浮かんできた発想なのか、分かるはずはなかった。
藤崎が執筆する時は、その日のノルマを決めておく。ノルマは時間ではなく枚数にしている。枚数を決めておくというのは、それだけ集中して書いている時は、時間の感覚がマヒしているということである。
「集中していると、あっという間に時間が過ぎてしまっている」
ということなのだが、
「高速で移動していると、自分で感じているよりも時間はあっという間に過ぎてしまう」
という、アインシュタインの相対性理論。つまりは、おとぎ話でいうところの浦島太郎の発想が生まれてくる。浦島太郎を書いた人の発想も藤崎に似ていたのかも知れない。しいて言えば、
「小説家の性のようなものだ」
と言えるのではないだろうか。
まさか、こんなところで浦島太郎の話が結びついてくるとは思わなかった。ずっとモヤモヤしていたものが、この発想に辿り着くことで、結びついていなかった発想のいくつかを結びつけることができているようだ。
スナック「コスモス」のママから、浦島太郎の話を聞いた時、
――ごく最近、自分も似たようなイメージを頭に描いたような気がする――
と感じた。
それは浦島太郎の話そのものというわけではなく、いろいろな発想が紆余曲折を繰り返しながら辿り着いたところであった。
同じ日を繰り返しているのも、一種の「繰り返し」、まったく同じものを繰り返しているということだけが不思議に感じるが、微妙に違っていて、後からそのことに気づくということも、十分に不思議な世界への入り口を形成する力となっているのかも知れない。
藤崎の小説は、元々こういう「不思議な世界」や、「不思議な力」をテーマにした話が多かった。しかし、なかなか受け入れられる時代ではなかったというべきか、気分転換に書いたミステリーが、新人賞を取るのだから、世の中というのは皮肉なものだ。
当然、出版社の依頼もミステリー作家としての依頼だけだ。出版社の人間に、藤崎がどんな小説を書くのが好きなのかなどということは関係ない。
――ファンが求めているもの――
それがすべてだった。
ミステリーを書いていれば、数年はファンに受け入れられていたのだが、次第に飽きられてきたのか、同じミステリーでも、新たな新進気鋭の作家がデビューすれば、人気も持っていかれてしまう。それは作家の宿命のようなもので、藤崎も自分がデビューしたおかげで、自分の知らないところで他の作家が憂き目を見ることになったのではないかということを、いまさらながらに知ったのだ。
押しのける方に罪の意識はない。
「それだけ実力がないからだ」
下手に意識してしまうと、このように考えてしまうだろう。
実際に自分が押しのけられる番になると、やりきれない気分にさせられた。しかし、思ったよりも被害妄想はない。やはり心のどこかで、
「自分の実力は知れているんだ」
と感じているからであろう。
――誰も恨むことはできない――
かといって、自分自身を恨むこともできない。どうしようもない葛藤が、藤崎に襲いかかる。それはまるで躁鬱症の鬱状態のようだ。その時初めて、
「躁状態のない鬱状態以外のうつ病」
を感じていた。