永遠を繋ぐ
ただ、永遠の命を繋いでいるという話を聞いたのは、かなり前だったということだけは言えるようだ。今から思えば、子供の頃だったような気がする。
――子供なので、難しいことは分からなくて当然だ――
という意識から、記憶だけしておいて、言葉の意味を考えようとはしなかった。今までであれば、分からないことがあれば、納得いくまで考えようとしたが、それはなかった。よほど自分の中で、
――子供が分かる必要のないことだ――
と思ったからだろう。
しかし、その時にそれ以上考えようとしなかったのは、我ながら後悔に値する。子供だからと言って納得できないことを放っておくようなことをしたことがなかったのに、その時、一度だけとは言え、自分の中で許してしまったことで、子供と大人の間に、否定したいはずの結界を、自分の中で作りあげたのかも知れない。
ただ、
「永遠の命を繋いでいる」
という言葉は曖昧で、特に子供の頃は、勘違いをしていたような気がした。もし、勘違いしたまま考えようとすれば、そのうちに頭が混乱してきて、辻褄を合わせようとすることで、
――何か、大きなことを自分の中で否定しようとしている――
という考えに陥ってしまったのではないだろうか。
子供の頃はそのまま理解しようとしていたので、永遠の命を繋いでいるのは、一人の人間だと思っていた。
いや、一人の人間としてしか発想が思い浮かんでこない。そのまま想像を巡らせてしまうと、落ち着く場所が見つからず、宙に浮いたまま彷徨っているのを感じてしまう。ちょっと見方を変えて、
――命を繋いでいるのは複数だ――
と思うことで、他の誰かではなく、自分が複数いると考えると、そこにパラレルワールドの発想が浮かんでくることを、子供の頃は分からなかった。
ただ、大人になると、今度は、
――もしかすると、自分と同じような考えを持っている人が他にもいるかも知れない――
と感じるようになった。
同じ時代を生きている人の数を考えれば、中には一人くらい同じ考えの人がいてもいいはずだ。もちろん、なかなか出会うことなどないのだろうが、もし出会ったとすれば、それこそ、見えない力が影響しているように思えてならなかった。
藤崎は、スナック「コスモス」で謎かけをした数日後、ふいに日向から声を掛けられた。一緒に店にいることはしょっちゅうだったが、声を掛けられたのは初めてだった。
――俺が切った時は、いつもあの人はいる――
そう、彼の方がいつも自分よりも早く来ていて、扉を開けると、指定席であるカウンターの一番手前の席に鎮座していた。
最初の頃は、扉を開けるとこちらに振り向いていたが、今ではまったく振り向こうとはしない。
――扉を開ける音を聞けば、俺が来たことが分かるんだろうな――
と感じたくらいだった。
藤崎は、日向くらいの年齢の男性と話をするのが、実は一番苦手だった。第一線から管理職への転換期であることを藤崎は知っていた。作家であるにもかかわらず、日向の気持ちが分かる気がした。
――もし、自分が日向と同じ営業職の仕事だったら、きっと彼の本心までは分からなかったに違いない――
同じ立場の人は、
――立場が同じだから、自分が一番分かるはずだ――
と、誰もが思うことだろう。
しかし、分かるということは、自分と同じだと思い込んでしまうことでもある。同じように見えても、人それぞれで微妙に違うのだから、少しくらいは違っていないとウソである。
それなのに思い込みというのは恐ろしいもので、まったく同じものだという意識が一番先にある。そのために微妙な違いを見誤ってしまい、それ以上近づくことはできない。藤崎はそれを「結界」のようなものだと思っている。
つまり、相手は意識していないのに、目の前に見えていることでも、絶対にそれ以上近づくことのできない「目に見えないバリア」に包まれているということである。
しかし、藤崎と日向は仕事も違えば、年齢も違っている。まったく違う考えを持っているであろうと想像できることで、藤崎の方は、
――なるべく、近づきたい――
と思うようになっていた。
日向の方は、いつも表情をまったく変えないので、何を考えているか分からない。たいていの人は近づきがたい人物だと思っているに違いない。
最初は藤崎も同じように思っていたが、どこか日向が、若い頃の自分に似ているように思えてならなかった。
藤崎は三十代には、人とのかかわりをシャットアウトした時期があった。ちょうど離婚してすぐくらいの頃だっただろうか。まわりの人誰もが信じられなくなり、まったくの無表情になった。
同じようにまわりの人が信じられなくなったことが、それまでにもなかったわけではない。しかし、その時との決定的な違いは、その時の藤崎は、まわりの人が信じられなくなる前に、一番最初に自分が信じられなくなっていた。
――こんなに辛いのは初めてだ――
そう思った時期だったが、今から思えば、まず最初に自分のことが信じられなくなってしまったことが一番の原因だったのだと思う。
まわりが藤崎のことをどう思っているかなど、気にしているつもりで、実は全然気にしていなかった。
――もし、自分のことを嫌いだと思ったとしても、どうすることもできない――
と思ったからだ。
それは、自分がその人のために性格を変えて合わせるようなことをしても、他に藤崎だからと言って信頼してくれている人を裏切ることになる。嫌いだと思われている相手を好きにさせるよりも、せっかく今自分のことを気に入ってくれている人を裏切ることの方が、どれほど罪が重いのか、藤崎は改めて考えていた。
人は、自分が形成している集団の中では、遠慮したり、相手を立てたりして、言葉は悪いが、「ゴマをする」ような真似をするもどのだ。
しかし、それが自分たちのまわりの人にどれほどの迷惑をかけているのか、分かっていない。
例えば、喫茶店のレジで、いい年をしたおばさんたちが、
「ここは私が払います」
「いえいえ、私の方が」
と言い合って、気を遣い合っているのを見ることがある。
他の人がどう感じているのか分からないが、藤崎は、
――見るに堪えない――
と思っている。
自分たちの集団の中ではいいのだろうが、もしそのレジに次の清算待ちのお客さんがいればどうだろう?
もし、その人が文句を言わなかったにしても、誰も気づかないのは、何とも見ていて情けない。
おばさんたちは、気を遣い合っているわけではなく、自分の立ち場が悪くなるのを恐れているだけなのだ。相手に対して優越感を味わいたいため、恩を売ってもらうことを極端に嫌う。そんな人は、自分が恩を売ったこともあるだろうから、その考えの根底は分かっているはずである。
――それなのに、どうしてやめられないのだろう?
そう思うと、やはり目に見えない何かの力が働いているのだということを感じずにはいられない。