永遠を繋ぐ
藤崎は、その本を読んだ時、自分で勝手に納得したような気がした。
「辻褄合わせ」という理屈で考えてみると、怖い夢だけを目が覚めても覚えているという意識は、説明できるような気がしてきた。
本当は、怖い夢だけを覚えているのは、何か皮肉めいたものを感じさせたが、「デジャブ」のような辻褄合わせの発想であれば、納得もできるというものだ。
逆に辻褄合わせということは、それはその人それぞれの感じ方が自由であってもいいという意味でもある。誰もが感じていることを、
――話すべきか、話さないべきか――
という思いを無意識に持っているとすれば、
――話すべきではない――
という結論しか生まれない。なぜなら、意識していることではないからである。
「誰もが感じていることでも、自分だけが感じていることだと思うのは、暗黙の了解を凌駕していることになるのかも知れない」
と思うようになっていた。
誰もが感じているのに、自分だけしか感じていないと思うようなことは、思ったより、多いのかも知れない。
「こんな話をすると、笑われる」
と思い、話さないことはたくさんあるが、その中のどれほどが、誰もが感じていることなのだろう。藤崎にとって「リピート」と「デジャブ」の関係を考えることは、その答えを導き出すためには、無視することのできないものなのかも知れない。
まわりのことに気を遣いすぎると、普段から意識していることと、無意識にしてしまっていることが頭の中で混乱し、果ては夢の世界のことなのか、現実のことなのかが分からなくなることがある。躁鬱症の間に、いきなり現れた「普通の状態」というのは、そんな意識を戒めるものなのかも知れないと、藤崎は感じるようになっていた。
藤崎は、子供の頃に見た「リピート」の夢を、最近になって意識してしまうことが多くなった。ハッキリと思い出されているという意識はないが、最近テレビで見た昔の映画が印象的だったからかも知れない。
その映画は、死んだ人間がいわゆる「あの世」に旅立つまでに、その進路を決めるという映画だった。
この世でどのような生き方をしたかで、どの道を進むのかが決まってしまうというのが、この世での死後の世界に対しての考え方である。
しかし、その映画は少し違っていた。
「あの世に行くまでに滞在しなければいけない場所があり、そこでの行動があの世に行くための進路を決める。つまりは、この世での生き方は、ただの参考でしかない」
というものだ。
要するに、この世での「受験」に匹敵するものだとは言えないだろうか。
確かに、この世の出来事からあの世への道を考えるなら、こっちの方が理屈に合っているような気がする。
また、あの世とこの世の間の世界での滞在期間というのは、ハッキリとは決まっていない。それは個人差があるからで、その人の過ごし方によって、滞在期間が決まる。
「まるで服役期間のようだ」
あの世に行くための滞在期間の間があるのであれば、逆に生まれてくる時も、あの世からこの世に生まれる前にも同じような滞在期間があるのかも知れない。その間に、あの世での記憶は完全に消されてしまってから生まれてくるのだが、逆にあの世に行くための滞在期間では、この世の記憶は、その間にすべて消されてしまうのだろうか?
つまりは、あの世に行くために、
――自分ではなくなってしまう――
という道を通らなければいけないのかということである。
その意識はあの世でも持っている。そこがあの世からこの世に入る時に、記憶がすべて消されてしまっている場合との違いでもあった。
ただ、この映画で主人公は、記憶を持ったまま生まれ変わっていた。そのことは他の誰にも話さない。その理由には二つあった。
一つは言い伝えの中に、
「あの世からの記憶を持って生まれた人は、この世で他言してはいけない」
というものがあったからだ。
まさしくおとぎ話の世界に当て嵌まるものではないだろうか。
もう一つは、あの世の記憶を持って生まれ変わった人の認識として、誰もが自分と同じように過去の記憶を持って生まれ変わってきているという発想である。だから、この世で他言してはいけないという戒めがあるのだと思っていた。いわゆる「暗黙の了解」である。
この世には、同じような暗黙の了解がいっぱい存在しているものだと思っている。言葉にしてしまうと、余計なことを言ったとして、相手の気分を害することもあれば、集団で話している時であれば、場の雰囲気を壊してしまうこともある。あまり突飛な話はしないようにするのがルールなのだろうが、それも、自分の言葉をまわりの人が理解するからであり、突飛すぎると、
「頭がおかしくなってしまったのではないか」
と思われてしまう。
そのうちに、どんなに正しいことを言っても、誰もその人の話を聞こうとしなくなる。まるで「オオカミ少年」のようではないか。
主人公の少年は、中学生くらいになると、
「生まれ変わる前に記憶は夢だったのではないか?」
と思うようになった。
成長するにしたがって、自分の世界だけでは生きていけないことを悟ってきた。それがいいことなのか悪いことなのか分からないが、少なくとも、まわりの人間に染まってきたことに変わりはなかった。
慣れとでもいえばいいのか、まわりの目が気になってくる。自分が集団意識の中に取り込まれたことを悟り、納得いかないと思いながらも、いまさら他の人に生まれ変わる前の記憶を話したとしても、誰も信じてはくれないだろう。それは自分がいくつになっても同じことで、
――このことは、棺桶まで持って行こう――
とさえ、思ったのだ。
すると次の発想が生まれてきた。
――それでは、自分が今度は他の誰かに生まれ変わった時も、今の自分の記憶を持っていることになるのだろうか?
もし、そうであれば、一人の人間の中で複数に記憶が膨れ上がってくることになる。次に生まれ変わった時に意識するのは、今の自分が考えていることなのか、それとも、自分が意識している生まれ変わる前のことなのか、果たしてどっちなのだろう? そう思うと今自分が感じていることも、本当に一つ前に生まれ変わる前の相手の記憶なのか、疑問が沸いてくるのだった。
もちろん、そんなことをずっと考えていても、結論など出るはずはない。出たとしても、それを証明するすべがあるはずもない。
一人の人間は一度死ぬと、次の誰かに生まれ変わるという発想から来ているものだが、死んだその人はどこかに収容される。一定の期間の間にあの世のどの世界に行くかを決めなければいけないが、なかなか決められない人もいるだろう。
そんな曖昧な人は、一定期間を過ぎると、今度はさらに一定期間が与えられる。しかし、その時に与えられる収容所は、ワンランク下の世界であった。
最後まで下がってしまうと、それ以上下がることはないが、その人はそのまま最低ランクのあの世に行くことになる。それがあの世とこの世を結ぶ世界の「掟」なのだ。