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永遠を繋ぐ

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 つまり、怖い夢は、一度忘れてしまってから、その後で改めて、思い出すということなのだろうか。これも、何か「リピート」も関係があるのではないかと思ってしまうのは、それだけリピートが夢と密接な関係にあるということを意識しているからに違いない。
 夢というのは、思い出すことのできる怖い夢をいつ見たのかということは、時間が経つと、まず覚えていない。昨日のことだったのか、それとも、子供の頃のことだったのか、過去に遡る意識は、感覚をマヒさせてしまっているのではないだろうか。
 だが、同じ日を繰り返しているという夢を見たのは、中学の頃だったという意識は、信憑性のあるものではないが、自分の中ではわりとハッキリとしたものであった。やはりその時に読んだ小説の印象が深かったことで、そんな夢を見たのであろう。そう思うと、その時に読んだ小説の内容を再度思い出そうと試みるのだった。
 残念ながら、何度か引っ越しを重ねるうちに、子供の頃に読んだ本は、処分していた。まさか大人になって、しかも、五十代の今頃、もう一度読みたくなるなど、想像もしていなかった。
 誰が書いた、何という小説なのかということも頭の中から消えていた。何かのきっかけがあれば思い出せそうな気がするが、そのきっかけを見つけるすべはまったくない。本屋に行って何度か探してみたが、本の背を眺めていても、その頃の記憶がよみがえってくるわけではない。
――そんなに俺って記憶力がないものなのか?
 と感じたが、それよりも、中学の時に、内容には興味があったが、タイトルや作家について、漠然としてしか考えていなかった証拠だろう。本来なら面白い小説を読んだのなら、同じ作家の他の小説も読んでみたいと思ってしかるべきなのに、
――それをしなかったのはなぜだろう?
 と考えてみた。
 答えはすぐに思いついたが、考えてみれば、当然のことだった。その作家の本は、その一冊だけが世に出ていて、面白い小説であるにもかかわらず話題に上がらなかったのは、――他の作品が世に出てこなかったからなのかも知れない――
 と、藤崎は感じていた。
 あれから、すでに三十数年が経っている。本屋に置いてあるわけもなく、探すとしても、なかなか難しい。検索してみれば出てくるのかも知れないが、そこまでして手に入れようと思わないのは、やはり夢の怖さをいまだに引きずっているからなのかも知れない。
 今までにも、何度か子供の頃の夢を思い出すことがあった。相当昔に見た夢なのに、結構リアルに意識できている。
「思い出したくもないと思っているのに、皮肉なことだ」
 と、ため息をつきたくなるくらいだった。
 そんな時に限って、躁鬱症の時だったりする。躁鬱症は意識し始めてから、しばらく躁状態と鬱状態を繰り返すが、気が付けば、躁鬱状態から抜けている。そして忘れた頃に、また入り込むのだ。
 そんなことを繰り返していると、同じ躁鬱症でも、以前と違ってきていることに気が付いた。
 最初の頃の躁鬱症は、
「躁状態と鬱状態が交互にやってきて、躁状態から鬱状態に変わる時は意識できるが、逆は意識できない。それでも、躁状態から鬱状態に変わっていく時も、鬱状態から躁状態に移っていく時も、その途中に普段の状態が存在するわけではない」
 と思っていた。
 しかし、最近の躁鬱症では、それまでになかった、
「普段の状態」
 が存在しているのだ。
 普段と違うところは、躁状態、鬱状態のどちらからやってきた時も、まったく変わりがないということだ。ただの中間、言葉は悪いがいわゆる「意識が通過するだけの風化した状態」は、自分が何を考えているのか、自分でも分からない、感覚がマヒしている状態があったのだ。
 躁鬱症がいつの間にかなくなっている時、躁鬱症だった頃のことを思い返すと、躁鬱症の時には意識できていなかった「普段の状態」の存在を、いやが上にも意識してしまうのだった。
――その期間は、どれほどのものだったのだろう?
 どうしてそんなことを感じるかというと、今までの躁鬱症では、鬱状態から躁状態への変換の際に、まるでトンネルを抜けるかのように感じていた。その間に普段のじょうっやいが入るのだとすると、自分の中で普段の状態に対してのハッキリとした意識が存在しているはずだと思ったからだ。
 また、怖い夢というのは、普段であれば、それをいつ見たのかということは曖昧だった。しかし、同じ日を繰り返しているという「リピート」の夢だけは、中学時代に見た夢だということを思い出させたのは、
――同じことを繰り返している――
 という意識が、今もあるからだった。
 同じ日を繰り返しているという意識ではなく、どちらかというと、「デジャブ」のイメージなのかも知れない。
「以前にも同じようなことを感じたような気がする」
「リピート」と「デジャブ」では、同じようなところもあるが、決して交わることのない平行線を描いているところもある、藤崎が最初に感じたのは、同じようなところであったが、意識していくうちに交わることのない平行線の存在を意識するようになっていた。
 なぜなら、デジャブに関しては、自分以外の人も意識している。人に話しても同調してくれる人がいて、話しやすい内容である。しかし、リピートに関しては、そのまま話しても、誰も相手にしてくれないことが多かった。なるべくその話題に触れたくないという意識が強いのであろうか。
 しかし、誰もが意識していないように感じられたが、なるべくその話題に触れないようにしようとしているのは、逆に意識しているからではないかと思うと、本当は誰もが意識していて、自分たちの中で、
「触れてはいけない意識」
 としての暗黙の了解があるのではないかと感じた。
 本当は藤崎にもあるのだろうが、意識しすぎているがゆえに、認めたくないという他の人の意識が、無意識のうちに覆い隠そうとして本人たちの意識の外で暗躍していることに最初は気づかなかった。
――どうして皆意識しているのに、意識していないふりをしているのだろう?
 と感じたのだが、そこに「無意識の意識」が働いているということに気づいてしまうと、意識してしまった自分が、まるで悪いことをしてしまったような罪悪感に包まれてしまった。だが、藤崎のように客観的にまわりを見ることができる人間は、案外と多いようだ。ただ、そんな人に限って、同じ日を繰り返しているという意識を、一度は持ったことがあるようだ。そんな彼らがいつの間にか現実に戻っているのは、
――「リピート」が夢だった――
 と感じるからで、そう思わせる目に見えない力が、本人の意識の外で、展開されていたのだった。
「リピート」を意識していないのに、「デジャブ」を感じるのは、何かの辻褄合わせが自分の意識の中に生まれたからではないだろうか?
 以前、何かの本で「デジャブ」のことが書かれていたのを読んだ。
「デジャブとは、本当に見たわけではないが、本や写真集などで見た内容が、自分の頭の中に鮮明に残っていて、『どこかで見たことがあるような』という意識を持つことで、意識の辻褄を合わせようとしているのだ」
 という話を見たことがあった。
――なるほど、これなら説明がつく――
作品名:永遠を繋ぐ 作家名:森本晃次