永遠を繋ぐ
そういう意味で自己満足を悪いことだとは決して思わない。むしろ、自分が向上していく上で不可欠なものだとさえ思っている。世の中には、本当は悪いことではないのに、悪いイメージで誰の頭にも悪いことだとして思い込ませるようなことがいくつも存在している。これは、目に見えない何かの力が働いていると考えてもおかしくはないと藤崎は思っていた。
「同じ日を繰り返している」
という発想も、同じ意味で目に見えない何かの力が働いていると思ってもいいのではないだろうか。もちろん、ただそれだけでは成立しないのだろうが、そこに自分の中にある普段の自分ではないもう一人の自分の意志が働いているとすると、一足す一は二ではなく、三だったり四だったりする世界の発想が生まれてきてもおかしくないだろう。
藤崎が小説を書きたいと思った最初は、中学生の頃に遡る。
その頃の友達に、SF小説が好きなやつがいたのだが、その頃の藤崎には、本を読むという趣味はなかった。漫画は見るが、本を読むことはなかった。そんな藤崎に小説の面白さを教えてくれたのが、その友達だった。
ちょうどその頃流行っていた小説の中に、SFでありながら、ホラーの要素も含んだ「奇妙なお話」を主題にしたものがあった。
その小説家は、元々歴史小説などを書いていたのだが、ある時急にSF小説を書いてみると、それが話題になり、彼特有のジャンルが生まれた。ラストの数行で、それまで読んできた内容の不思議な部分がすべて解決される作品だったが、それだけに一度読んだだけではなかなか理解できるものではない。何度も読み返すことで、やっと理解できるのだ。
最初は、そんな面倒なことはできないと思っていたが、納得できないことをそのままにしてはおけない性格だった子供の頃、藤崎は何度も読み直してみた。
今の藤崎が自分の性格で忘れてしまっているのは、子供の頃に感じていた、
「納得できないことをそのままにはしておけない性格」
というものだった。
忘れてしまっているからなのか、今ではすっかり淡泊になってしまい、面倒なことは絶対しないというそんな性格になってしまっていた。
ものぐさだという人もいるが、まさしくその通りだ。最近までは、ものぐさと言われても、他人事のように思っていたが、今ではものぐさだということを今まで考えたこともなかったことに、自分でも不思議に感じていた。
ただ、納得のできないことをそのままにしておけない性格が、ものぐさではないとは言い切れない。もし、そう感じるのであれば、大人になってから子供の頃を思い出して、自分自身で、
「子供の頃の方が、もっと積極的だった」
ということを、自覚している証拠だった。
それだけ年を取ったということなのだろう。少なくともものぐさだということに関しては、
「年を重ねた」
とはいいがたいものだと、藤崎は思っていた。
子供の頃に友達から進められて読んだ小説の中に、今ではハッキリと覚えていないが、
「リピート」
という言葉がキーになっていた小説を読んだことがあった。内容がハッキリとしないのは、
「中学生には難しい小説だ」
と、友達に言われたからだった。
自分では、
「よし、意地でも理解してやるぞ」
と思ったのだが、その裏で頭の中では、
「友達が言うんだから、理解できるはずはない」
と思っていた。
その頃から自分のことを、
「裏表のある人間だ」
と思っていたが、別にそれが悪いことではないと思っていた。確かに内面と外面では正反対なのは気になるが、逆に正反対だということは、
「逆も真なり」
とは言えないだろうか。
友達の話していた小説を読んで、「リピート」という言葉が頭に残ったのだが、その後すぐに、「リピート」という言葉がきっかけでSF小説を読み始めたという意識が薄れてきたのを感じた。
SF小説を読み始めて一年くらいが経ってからだろうか。藤崎が読んだ小説で大きな印象に残ったものとして、
「同じ日を繰り返している」
というものがあった。
確かその小説では、主人公は同じ日を繰り返しているということにすぐに気づいたわけではない。
「どうもおかしい」
と思いながらも、同じ日を三回繰り返して、やっと事の次第に気が付いたのだ。
まわりの人にそんなことを言えるわけはない。毎日同じパターンが繰り返されるだけで、同じ時間に学校に出かけ、朝最初に出会う相手も毎日同じ、何か小さな出来事が起こっても、知っていたのは自分だけなのである。
さすがに何度も同じ日を繰り返していると、パターンが分かってくる。最初は流れに身を任せて様子を見るしかないと覚悟を決めるしかなかったが、すべてが分かってくるようになると、
――何とか悪いことだけでも変えられないか――
と考えるようになる。
結局、どうしようもないのだが、主人公は次第にその状況に慣れていき、気が付けば自分だけが年を取っている。同じ日を繰り返しているのだから、まわりの人は年を取らない。まるで浦島太郎の逆ではないか。
藤崎は、この小説を何度も読み返すのと同時に、もう一度浦島太郎の話を図書館で読んでみた。この世界の浦島太郎は、少しストーリーが違っていたのだ。
というのは、玉手箱を開けてもおじいさんになることはなかった。戻ってきた世界で、同じ日を繰り返すことで時代が浦島太郎においつくのだ。その時代の浦島太郎を自分に置き換えてみた。
――これは夢なんだ――
そう思うと、気が付けば、布団の中で目を覚ました自分がいた。
――ホッとした――
まず最初にそう感じた。怖い夢ほど忘れずに覚えているという感覚は、その時からだったのかも知れない。藤崎がそれまでに感じた怖いという感覚が、
――まるで子供だ――
と感じてしまうほど、同じ日を繰り返している自分が怖かった。
何といっても、一晩で何年、いや、何十年も年を取った気がしたからだ。同じ日を繰り返していて、まわりの人は一切年を取らないのに、自分だけが同じ日を繰り返しているという感覚とともに、年だけ取っていく。夢から覚めて、次第に意識が元の世界に戻ってくるにともなって、恐ろしさが倍増してくるのだ。
「夢というのは、目が覚める寸前の数秒に見るものらしいぞ」
という話を聞いたことがあった。
確かに、目が覚めるにしたがって、それまで長かったと思っていた夢の世界が、一瞬だったように思えてくる。それは夢を覚えている、覚えていないにかかわらずである。その時、夢の世界と現実の世界の間に、明らかな差があることを知る気がした。
目が覚めてから、夢のことを思い出そうとするのは、楽しかった夢だという意識がある時である。そんな時に限って、さっきまで覚えていたはずの夢を思い出すことができなくなってしまっていた。だから、
――楽しかった夢は、目が覚めるにしたがって忘れていくものだ――
という思いに駆られた。
逆に、怖かった夢に関しては覚えているものである。実に皮肉なことなのだが、そのうちに、
――夢というのは、目が覚めるにしたがって忘れていくものだ――
と、楽しかった夢であっても、怖い夢であっても、夢はすべて忘れてしまうものだという意識を持つようになっていた。