永遠を繋ぐ
という時に口にする「繋いでいる」という言葉、意味としてはまったく違ったものだが、藤崎には切っても切り離せないものに思えてならなかった。
躁鬱性を感じるようになってから、躁状態と鬱状態が、同じ感覚で交互に襲ってきていることに気が付いた。大体感覚的に二週間周期で、躁状態と鬱状態が入れ替わっていた。
どちらが最初に抜けるのに気が付いたかというと、鬱状態を抜ける時の方が、分かるようになっていた。それは躁鬱症ではないかということに気が付いてから、結構早いうちだったような気がする。
鬱状態というのは、昼と夜とでは感じ方が違う。それは精神的な面でも、肉体的な面でも同じことで、身体に言い知れぬ重みや疲れを感じた時、自分が鬱状態だと分かるのだった。
鬱状態から抜けるのを感じる時、まるでトンネルから抜ける感覚があった。トンネル内の黄色いランプは、鬱状態である自分の精神状態を映しているようで、言い知れぬ身体に感じる重たさ、そして疲れを想像させる。
トンネルの出口が近づいてくると、同じ黄色い色でも、真っ暗な中に灯された黄色い明かりを思わせた鬱状態から、表の空気に触れようとしている感覚を思わせる風が吹いてきたのを感じた時、
「そろそろ鬱状態を抜けるんじゃないか?」
と感じさせた。
その思いは時間とともにハッキリとした意識へと繋がり、夢から覚める時の感覚に似たものを感じさせた。しかし、その時の意識は夢を見ている時のようなおぼろげなものではなく、
「怖い夢以外は覚えていない」
いや、
「怖い夢であれば、覚えていることができる」
という感覚とは違っているものであった。
鬱状態とは、
――空気が風もなく、湿気を帯びたもので、水のように密度が濃い状態で、身体に纏わりついたことで、言い知れぬけ重たさと疲れを感じさせるものだ――
と思うようになっていたが、夢との違いは、その時のことを覚えているか覚えていないかの違いのように思えてならなかった。鬱状態の時は、忘れることはなかった。
年齢を重ねることに、忘れることが極端に多くなり、そのおかげなのか、躁鬱状態にはなかなか入ることがなくなっていた。
――躁鬱状態を感じなくなって、どれくらいが経ったのだろう?
若い頃に躁鬱状態を続けていた時、
――躁鬱状態から抜けることは一生ないかも知れないな――
と、「知れない」という但し書きを付けた上で感じていたが、本当は、
――躁鬱状態から抜けることはないだろう――
という思いが大半を占めていた。それだけ躁鬱状態に一度入り込んでしまうと、抜けることはないと感じてしまうのだった。
その理由としては、鬱状態と躁状態を繰り返ようになると、躁状態の後には鬱状態、そして鬱状態の後には躁状態という流れしか、考えられなくなるからだった。
それは、まるで一度入り込んでしまった森からは、絶対に抜けることのできないという樹海のようなイメージを感じていたからだった。
この感覚は、同じことを繰り返している「リピート」にも通じるものがある。藤崎が、「永遠の命を繋いでいる」
として感じている「リピート」は、彼の元々あった躁鬱症の発想からも想像することができる。
藤崎の感じている「永遠の命」は、若い頃から繋がっている躁鬱症に端を発する「リピート」へと繋がっていくのだった……。
第二章 リピート
同じ時間を繰り返している「リピート」という発想。そこには、若い頃から感じるようになった躁鬱症が絡んできていた。しかし、繰り返していることを忘れることのなかった躁鬱症は、今となっては昔のこととなってしまった。それは、忘れることが日常茶飯事のようになってしまい、覚えていることができなくなったことで、
――自分の人生が夢ではないか?
という発想に至ったからだった。
この発想は、そんなに昔からあったものではなく、つい最近になって感じるようになったものだ。小説を書いていて、ふと頭に浮かんできたことだが、小説としては面白いが、自分の人生としては笑えるものではない。それでもせっかく浮かんできた発想なので、忘れないようにメモしていた。ただ、そのことを思い出そうとすると、いくらメモしておいたこととはいえ、そう簡単に思え出せない。性格に言えば、
「思い出したことが、時系列で繋がってこない」
ということだったのだ。
夢は怖い夢だけ覚えているというのもおかしなものである。楽しかった夢を見たという意識はあるのだが、記憶としては残っていない。記憶が曖昧なのだ。まったく忘れてしまったわけではないと思っていたが、最近はメモを見ても思い出せないことが多い。
「覚えていなければいけないことだ」
と、その時は思っていても、
「どうして覚えておかなければいけないと思ったのか?」
ということを忘れてしまっているのだから、
「忘れないようにしよう」
と自分に言い聞かせても、覚えていないのはある意味当然のことなのかも知れない。
怖い夢だけは鮮明に記憶に残っている。
本当は忘れてしまいたいことであるはずなのに、忘れられないのだ。
覚えられないという感覚と、忘れられないという感覚。若い頃は、忘れられないという方が強かったのに、今では覚えられないという感覚の方が強い。
今の方が辛いように感じるが、考えてみれば、忘れてしまいたいことを忘れられない方が、よほど辛いのではないかと思う。だが、覚えられないということが実質的な自分の身体の衰えとなるので、本当は切実な問題である。それを問題としない感覚は、自分が生きていることを繰り返している。つまり「リピート」していることで、マヒしてしまった感覚があるということになるのではないだろうか。
――同じ日を繰り返している人がいる――
藤崎は、最近そんな夢を見た。それこそ、
「忘れてしまいたい夢」
であるはずなのに、覚えている。自分の中でも最近見た覚えている夢の中でも、一番怖い夢だったような気がする。
同じ日を繰り返している人がいるのではないかという感覚は、実は昔からあった。
自分の小説の題材にしたこともあったが、最後のところでどのように閉めていいのか分からずに、中途半端になってしまった記憶がある。
藤崎は今まで自分が書いて発表した作品を読み返したことはない。新しい作品を作り出す妨げになると思ったからだ。
それに、自分の発想が貧困だと思っている部分もあってか、前の作品を読み返すことで、同じような作品が出来上がってしまうのではないかという危惧が、頭をよぎるからだった。
藤崎は次第に、今までの自分が、
――自己満足で小説を書いていたのではないか?
と思うようになっていた。
確かに、小説を書いている時は、自分の世界に入り込み、他の人には到底思い浮かぶはずもないような発想を思い浮かべていることが、まわりの人に対しての優越感となっていることに気づいていた。
しかし、
「自己満足というのも、自分が満足できないのに、他の人に認めさせることなどできるはずがない」
という考えからだった。